尾上松之助を考える

 シルベスター・スタローンが自分の映画を酷評ばかりする映画評論家を撮影現場に呼んで、一緒に撮影用のヘリに乗せた。ヘリの中でビビッている映画評論家に、「自分たちはこんな危険な思いで撮影しているんだ!そして、自分たちのような映画で稼いだ金で、お前たちが好きな芸術的な映画は作られているんだ」と言ったというエピソードを、読んだことがある。

 このエピソードは、恐らく当時人気絶頂であったであろうスタローンの傲慢さを感じさせるエピソードでもある一方で、スタローンの言っていることも真実の一面であると私は思う。


 「日本映画最初のスターは誰か?」という問いの答えに迷うことはない。それは、尾上松之助である。「目玉の松ちゃん」として親しまれたという尾上松之助は、当時の子供に「天皇の次に偉い人」とまで認識されていた。尾上松之助は単なる映画スターという存在を超えて、時代を象徴するイコンですらあったと言えるかもしれない。

 それではなぜ、尾上松之助はそれほど人気を得たのだろうか?その最大の理由は、尾上松之助が当時人気のあった講談の主人公を演じたからだ。英雄豪傑を主人公とした勧善懲悪の物語である講談は、分かりやすく、スカっとする、人びとの愛されるものだった。歴史上の剣豪や戦国武将、幕末の志士、さらには侠客から僧侶まで演じたというから、その幅は広い。

 尾上松之助の身軽さが、動きが重要なサイレント映画に合っていたとか、舞台を撮影するように固定のカメラの前で引きの映像で撮影されていたという当時の手法に、顔が大きい尾上松之助のサイズが合っていたとか、尾上松之助の資質の面ももちろん指摘しなければならない。

 尾上松之助を映画界に引き入れたのは、「日本映画の父」と言われる牧野省三である。松之助がスターを超えてイコンにまでなったのには、もちろん牧野の功績もあるだろう。


 1909年から1926年にかけて、1,000本以上の作品に主演したといわれる(実際は1,000本以下とも言われている)尾上松之助の映画の主な観客は子供だったと言われる。そして、大人の映画の観客は松之助映画を軽蔑し、外国映画を主に見ていたとも言われている。

 松之助映画は、確かに英雄豪傑を主人公にした単純なもので、確かに演出技法的にも新鮮なものではなかったらしい。そのためか、松之助映画の評価はあまり高くない。現存する作品がほとんどないという状態も、評価を上げることを難しくしている。


 最初に挙げたシルベスター・スタローンのエピソードは、おそらくスタローンの人気が絶頂だった1980年代のことだと思われる。松之助の映画が主に人気を得たのは1910年代だ。70年の時を経ても、映画を巡る状況について変わっていない部分があるということを、私は強調したい。

 巨大な資本が必要な映画産業においては、映画製作は金がかかるのだ。もちろん、1910年代と1980年代では規模は異なるが、金がかかるという点に変わりはない。いつの時代も、金を稼ぐための映画が存在し、その一方で革新的だったり、芸術的だったりすることを志す映画が存在する。そして、だいたい評価されるのは後者である。

 しかし、忘れてはならないだろう。映画は、どちらか一方だけでは存在できなかったということを。映画自体は、分かりやすい英雄豪傑もので、撮影方法に工夫はなかったとしても、松之助映画は日本映画を産業として成立させる基礎を築いたことは否定できない。そして、産業としての日本映画がしっかりと確立されなければ、その後に多く作られた日本映画の一部は、もしかしたら存在しなかったのかもしれないのだ。


日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

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