ミューチュアル時代のチャップリン

 1916年、エッサネイ社からミューチュアル社へとチャールズ・チャップリンは移籍する。チャップリンの給料はエッサネイ社のときの週給1,250ドルから年67万ドルへと跳ね上がる。引き続き映画製作上の自由を与えられたチャップリンは、ミューチュアル社時代にチャーリー像をしっかりと完成させることになる。

 チャップリンとミューチュアル社は1年間で12本の映画製作の契約を結んだ。しかし、チャップリンは1年間では12本の作品を製作することができず、結局1年半ほどの時間がかかっている。チャップリンはそれだけ、1本の作品に時間をかけるようになったということだ。

 ミューチュアル時代のチャップリンの映画を見ると、この頃のチャップリンが今までの路線を踏襲しつつも、新たなアイデアを加えて、それまでにない作品に仕上げることが出来る腕前を着実に身に着けていることがわかる。

 例えば、「チャップリンの替玉」ではエスカレーターが、「チャップリンのスケート」ではスケートが加われば、チャップリンは見事に装置や小道具を活かした作品を作ってみせる。また、職業でも、「チャップリンの番頭」では質屋の店員、「チャップリンの消防夫」では消防夫になるだけで、それぞれの職業に特化したギャグを見せてみせる。チャップリンのアイデアは、すでにちょっとした装置や小道具、職業を与えるだけで2巻物の優れたギャグ映画を取ることができるようになっている。

 ただ単にエッサネイ社時代までのドタバタを、装置や小道具や職業を変えて焼き直しているわけではない。ギャグはそれまでよりも練られていることがミューチュアル社の作品ではわかる。だからこそ、チャップリンは1年という契約を守ることができなかったのだ。


 それだけではない。チャップリンはミューチュアル時代に新機軸をいろいろと試みている。たとえば、「午前一時」では、チャップリンは自身のルーツであるヴォードヴィル時代に培った酔払い芸をほとんど1人だけで見せる。また、「チャップリンの放浪者」では、ギャグを抑えて人情メロドラマとしてのアプローチを試みている。「放浪者」でチャップリンが見せる優しい眼差しや抱擁は、後の長篇のチャップリン映画へと明瞭につながっている。

 「チャップリンの放浪者」ですでに、チャップリンは「チャーリー」のキャラクターを確立しているが、「チャップリンの移民」で決定的なものとする。そこにあるチャーリーのキャラクター(優しく、見栄っ張り)は貧困というチャップリン映画を特徴づけるテーマとも結びついてミューチュアル時代の最高傑作となっている。

 「チャップリンの移民」は、キャラクターやテーマだけではなく、レストランの食事代を巡ってのサスペンス溢れるシーンとギャグの融合など、1つのドラマとして(すなわちドラマの監督チャップリンとして)見事に完成された映画となっている。チャップリンは、エッサネイ時代までのギャグ映画に飽き足らなくなり、しかも脱皮に見事に成功している。キートンやロイド、アーバックルといったサイレント時代のコメディアンとチャップリンの最大の違いはここにある。チャップリンは果敢に脱皮に挑戦し、そして成功したのだ(脱皮しないことが悪いとは言っていない。脱皮しないでコメディに打ち込むこともまた素晴らしいことだ)


 チャップリンが映画製作に時間がかかるようになったもう1つの理由に、セットがあるだろう。この頃のチャップリンはセットにかなりのこだわりを持っていることがわかる。印象的なセットを挙げると「替玉」のデパートのセット、「午前一時」のリビングと階段、ベッドルームのセット、「霊泉」の泉の湧く庭のセットなどがある。しかし、最も素晴らしいセットは「勇敢」のものだろう。

 「チャップリンの勇敢」のスラムのセットは見事だ。画面の右と左と正面に建物があり、T字路となっている。これだと奥行きがさえぎられるため、非常に経済的なのだ。そんなことよりも重要なのは、貧しさがこびりついているかのような雰囲気だ。チャップリン自身が幼い頃スラムに住んでいたということもあるのだろうが、この貧しさへの鋭さはこの後もチャップリン映画を支えていく。

 
 ミューチュアル時代になると、チャップリンは共演者を固めていく。ヒロイン役はいわずと知れたエドナ・パーヴィアンス。エドナは時に令嬢を、時に汚れたジプシー役を演じてみせる。そして、その両方を見事にこなす。そして、何よりも、チャップリンよりも目立たず、それでいてヒロイン役としてしっかりと存在感を示している。エドナはこの後も、影でしっかりとチャップリン映画を支えていく。

 他にも、巨漢でチャーリーと対象をなすことで、チャップリンの弱さ、小ささ(それは見る人たちの弱さ、小ささを代弁しているかのようだ)を表現する助けとなっているエリック・キャンベルの存在は忘れてはいけないだろう。「勇敢」での誰も手のつけられない暴れん坊はキャンベルだからこそ説得力を持っているし、「移民」でレストランの食事代がないということが、あれほどのサスペンスを生み出すのも、あの巨漢のキャンベルに何をされるかわからないという恐ろしさあってのことだ。


 おそらく、ミューチュアル社としては、最後の作品となる「チャップリンの冒険」のような、これまでのチャップリン映画を踏襲した作品を、あまり間隔を置かずに作ってくれた方が嬉しかったのだろう。しかし、それでもチャップリン映画は大ヒットを記録したのだから、ミューチュアル社としては、引き続きチャップリンに映画を製作して欲しかった。だが、契約延長を申し出たミューチュアル社を足蹴にして、チャップリンはファースト・ナショナル社へと移籍することになる。

 チャップリンは、すでにキーストン社、エッサネイ社時代のドタバタを焼き直したり、工夫して発展させたりするといった所を目標としてはいなかった。唯一無二の「チャップリン映画」の製作へと向かっていた。それは、ファースト・ナショナル社で「担え銃」や「キッド」といった作品となって、世に出て行くことになる。