ディーヴァはなぜイタリア映画を衰退させたか?

 「ディーヴァ」とは女神と言う意味を持つ言葉であるが、ここでは主に1910年代後半のイタリア映画界を支配したと言われる、女優たちのことを指す「ディーヴァ」について書きたい。

 イタリアにおけるディーヴァは、1913年頃に誕生したと言われる。「されどわが愛は死なず」(1913)が第一号作品で、リタ・ボレッリがディーヴァとなった最初の女優とも言われるが、様々な意見がある。ディーヴァと言われた女優たちには、ボレッリのほかにも、フランチェスカベルティーニ、ニーナ・メニケッリといった名前が挙げられる。

 ディーヴァたちが出演した作品は、三角関係を描いた低予算で撮影できるメロドラマが多かったと言われる。そんなディーヴァたちの存在は、イタリア映画界を支えた一方で、衰退の原因になったとも言われる。

 なぜディーヴァたちは、イタリア映画衰退の原因になったのだろうか?

 理由の1つとして、ディーヴァの人気により、イタリア映画の特徴が失われてしまったという点が挙げられる。それまでのイタリア映画といえば、スペクタクル映画という特徴があった。「クォ・ヴァディス」(1912)、「カビリア」(1914)といったスペクタクル映画は、世界に広がり、ヒットを飛ばした。しかし、ディーヴァが出演した作品の多くがメロドラマだったことにより、イタリア映画=スペクタクル映画という図式が崩れてしまったのだ。

 もちろん、メロドラマが悪いということを言いたいわけではない。しかし、素晴らしいものもくだらないものも含めて、メロドラマは世界中で作られていた。イタリア映画の専売特許ではなかったのだ。

 理由の2つ目として、ディーヴァが傲慢だったとも言われる。例えば、プロデューサーと結婚して思いのままの作品を撮るようにしたとか、別のディーヴァが演じた役柄に嫉妬して同じような役柄を演じる企画を押し通したりといったことが行われたという。その結果、作品としても面白さを追求するよりも、ディーヴァの欲求や自己顕示欲を実現するための作品が増えていったのだと思われる。

 ディーヴァは完全なるスター・システムだ。だが、決してスター・システムゆえにイタリア映画を衰退に追い込んだわけではない。その証拠に、アメリカの例を見てみよう。メアリー・ピックフォードは、自らの人気から給料を上げてもらい、自らのプロダクションを設立している。それでもピックフォードは、スターとしては失敗しなかった。

 イタリアのディーヴァたちと、アメリカのメアリー・ピックフォードの違いは何だったのだろう?第一次大戦の勃発という大きな出来事もある。しかし、それ以上に、それぞれの視線の先にあるものの違いであるように思える。

 イタリアのディーヴァたち、そしてイタリアの映画人たちが見ていたもの。それは、映画界の内側であった。対してアメリカのピックフォードや映画人たちが見ていたもの。それは、映画界の外側であったのではないだろうか?

 ピックフォードは、スターとしては成功した。一方で、自分が演じたい大人の女性と、世間が求める少女役とのギャップに苦しんだと言われる。イタリアのディーヴァたちの話から、そういった苦悩は聞かない。どちらが優れているとかいった問題ではない。片方は外側を見て生き残り、片方は内側を見て衰退していった。ただ、それだけの話だ。

 ちなみにピックフォードは、外側を無視して、自らが演じたいと思う役柄に出演したときは、必ずといっていいほど興行的には失敗した。そんなピックフォードは、かつてのイタリアのディーヴァたちの話を聞いて、どう思ったのだろうか?もしかしたら、短い期間でも思う通りの映画を作ることができたディーヴァたちをうらやんでいたかもしれない。