日活の独占が成立しなかった理由

 現在でも名を残す映画会社である日活は、1912年に設立された会社が元となっている。設立当時の正式社名は日本活動写真株式会社であり、その略称が日活であった。

 日活は、当時の日本映画の四大会社であった横田商店、吉沢商会、エム・パテー商会、福宝堂が合併して出来た映画会社である。これらの会社は映画館も保有しており、いわばトラストであり、基盤としては磐石なはずであった。しかし、日活は当初思われていたほど、映画界を独占することはできなかった。

 当時の日本映画の水準は、アメリカなどと比べて決して高いとはいえなかった。一方で、尾上松之助のようなスターが誕生しており、映画の人気は高まっていた。日活としては、映画の水準を上げる努力をしなくても、スターの存在によって、映画館には客が入る構造になっていたのだ。

 儲かる構造ができていることもあり、冒険をしない映画会社に対して不満を持つ人々も多くいた。それは、映画を金儲けの道具だけではなく、作品として捉えていた人々であった。たとえば、「日本映画の父」と言われた牧野省三がそうである。しかし、会社側は映画製作者の権威が増すことを恐れ、牧野のような人物を応援しなかったし、また第二の牧野を育てることもしなかった。

 こうして、作品としての映画を作ろうとした人々は、日活ではない場で映画製作を行おうとした。そこには、当時の映画製作が、それほど難しくなかったから可能だったという背景もある。当時の映画は、サイレントだった。そのため、極端に言うと、カメラとフィルムと被写体と日光があれば、何とか映画は作れたのだ。とはいっても、もちろんそんなに簡単にはいかないわけで、例えば時代劇を作ろうと思ったら当事の服装をしなければならないなどの制約はあった。

 もう1つ日活の独占を阻んだのは、人間関係の悪さにあったとも言われている。それは、経営陣もそうだったらしいが、それよりも現場がうまくいかなかったという点が面白い。集団で映画を作ろうと思ったことがある人はわかると思うが、映画製作はチームワークや信頼関係が重要である。そのため、単純に4社が合併したと言っても、そう簡単にチームワークが芽生えるわけではない。そこで、主流派になれなかった人々は、日活以外に映画製作の場を求めたのだった。

 こうして、日活のトラストの目論見は崩れ、日本映画は日活+中規模の映画会社の時代を迎えることになる。その間、日活の映画は多少の変化を見せるものの、基本は尾上松之助のようなスターを中心とした旧態依然の映画製作を続けていく。日活は映画を作品として捉えず、監督や製作者などはほとんど育てなかった。しかし、日活がダメだと言っているわけではない。なぜなら、日活の映画は多くの人々を楽しませたからだ。

 当時、アメリカでエジソン社を中心にして結成されたカルテルは、カルテル以外の独立系の映画会社が作った作品の方が面白かったことが最大の要因となって、失敗に終わった。対して、日活はトラストとしての独占は成功しなかったものの、大スターの尾上松之助らを擁して、観客を惹きつけ続けた。もし、日活がさらに工夫をして、松之助ファンとは異なる層にもアピールできる作品を作る製作者や監督、脚本家を養成することが出来れば、日本の映画史は変わっていたかもしれない。面白くなっていたか、つまらなくなっていたかは別として。