第一次世界大戦 映画と戦争の出会い

 第一次大戦は、1914年から5年にわたる戦闘の末、900万人以上の兵士の戦死者を出した戦争である。

 1895年に誕生したとされる映画にとって、第一次大戦は初めての戦争ではなかった。例えば1898年にアメリカとスペインの間で起こった戦争に映画は大きく関わっている。キューバが主戦場であったこともあり、アメリカの映画会社はキューバに撮影隊を送ろうとしたが、軍によって阻止され、ロケやセットに加えてミニチュアを使って撮影された再現された映像が、ニュース映画のように上映されたりもした。また、1904年に起こった日露戦争では、日本は朝鮮半島や旧満州に撮影隊を派遣し、実際の映像が日本で上映され、映画の人気を高めたとも言われている。

 第一次大戦がそれまでの戦争よりも映画に多くの影響を与えた点は、世界の映画産業の構図を変化させたからである。具体的には、それまで世界の映画の中心はパテ社を中心としたフランスであり、スペクタクル映画を売りにしたイタリアであり、巨大な観客数を誇っていたアメリカであった。この構図が変わり、アメリカ映画の世界支配が強まったのだ。

 その理由は簡単だ。第一次大戦の主戦場はヨーロッパだったからだ。小規模な産業から巨大な資本を必要とする産業へと、映画が変化を迎えていた時期とも重なっていた点も大きい。戦争を終えて、いざフランスやイタリアが映画復興に着手しようとしたとき、映画は金のかかるものとなっており、アメリカ映画が築き上げた支配を覆すことは難しい状況になっていたのだ。

 第一次大戦が、リアルタイムで映像として大規模に記録された最初の映画という点も興味深い。各国とも、国家として戦場の様子の撮影を行った。私がイメージする「戦争」は、おそらく第一次大戦以降のものだろう。南北戦争アメリカ独立戦争、日本の戊辰戦争など、戦争と名のつくものはそれ以前にも多くあるが、それらは歴史上の出来事というイメージが強い。その理由は、映像として残されていないからだと思われる。

 といった点以上に第一次大戦と映画の関係においての特殊な点として、第一次大戦を扱った商業映画が戦争中から作られていたという点がある。チャールズ・チャップリンは、1918年に「担え銃」で塹壕を見事に描いている。D・W・グリフィスは「世界の心」(1918)を監督している。この作品は、イギリス政府の依頼で作られた作品だが、第一次大戦が引き起こす悲劇をメロドラマとして描いている。メアリー・ピックフォード主演、セシル・B・デミル監督の「小米国人」(1917)は、愛国的な内容のメロドラマである。

 これらの作品は、今見るとコメディやメロドラマとして楽しめるものである。しかし、当時戦争の真っ只中で公開されたことを考えると、別の様相を呈する。これらの作品は、商業作品である一方で、プロパガンダ的な意味合いも持っている。さらに、今のようにニュースをテレビで見ることができない時代においては、ニュースとしての意味合いも持っていたかもしれない。

 ベトナム戦争においては、小さなプロダクションを除くとプロパガンダ色の強い「グリーン・ベレー」(1968)程度しか作られていない。湾岸戦争となると戦争終結後5年後の「戦火の勇気」(1996)まで、本格的な商業映画としては作られていない。

 戦争中に商業映画が作られることは、現在の視点から見ると、あり得ないように思える。人が死んでいる戦争をダシにして儲けているとも取られかねないし、冷静な思考を失わせる恐れもある。

 このことは、映画=映像の歴史を考える上で、非常に面白い。第一次大戦当時は、まだ映像は映画館でしか見られないものであった。現在世界で起こっていることはテレビで見て、映画には別のものを求めるという感覚は当時の人々にはなかった。また、現在ほどアメリカ映画は世界を相手に商売をしてはいなかったため、アメリカ国民のみに向けた作品を作ることは、商業的に不利にはならなかったのだ。

 第一次大戦当時の人々にとって、映像にニュースと商業映画の区別もなかったことだろう。そのことに疑問は挟まれず、人々は記録映画や商業映画で描かれる第一次大戦を受容し、自らの考えに影響を与えていったことだろう。

 一方で、こういう話もある。前線で戦う兵士たちの慰問のため、映画の上映も行われたという。ここでも、プロパガンダ的要素を持つ映画や記録映画も上映された。しかし、兵士たちが最も好んだのは、コメディだったという。命を賭けて戦う兵士たちにとっては、戦争は現実だけでたくさんだったのだ。