日本 帰山教正の革新運動の成果 「生の輝き」「深山の乙女」

 前年、「活動写真劇の創作と撮影法」という著作を出版して、映画人に影響を与えた帰山教正は、天活と提携して映画製作会社の映画芸術協会を設立し、「生の輝き」「深山の乙女」(1919)を監督している。

 弁士のいらない映画、せめて一人の弁士が解説するスポークン・タイトル入りの映画を、そして女形をやめて女優を使った映画の製作(女形では映画のクロースアップに耐えられなかったため)を目指した帰山教正が理論だけではなく実践を行った映画である。

 当時、天活の輸入係に所属していた帰山が上層部に製作願いを提出して、上層部が受け入れて製作がスタートした。帰山は当時1本の平均予算が1,500円から2,000円という時代に、2本で900円という予算を立てたが、このことは会社内に帰山のやる気がないのではないかと疑いを招いた。さらには、輸入係の若者が映画を製作することに反発するものもおり、天活の撮影所も所属の俳優も使うことが出来なかった。

 「生の輝き」は箱根にロケが行われたが、撮影費に回すために電車賃を切り詰めて行われた。また、帰京後もセットを作らず、実景を使用して撮影を行ったという。また、「深山の乙女」では、日本アルプス上高地にロケが行われたという。

 これらの作品では、俳優として参加していた村田実(後に映画監督)の推薦で女形ではなく花柳はるみを女優として採用した(この時の経験を機に村田は映画の世界に入っていく)。それまで、少女歌舞伎をそのまま撮った映画はエム・パテーが製作していたが、映画のために創作された作品で女の役を女優が演じたという点が画期的だった。その意味で、花柳はるみは映画女優の第1号と言われている。他の俳優たちも既成の体制とは異なった新劇の俳優たちだった。

 このとき、帰山はそれまでの日本映画の製作では使われたことのなかったシナリオを初めて作り、本読みも行っている。帰山はアメリカの映画の本を見て、シナリオの存在を知っていたのだ。こうして作られた作品は、弁士が説明しなくてもストーリーがわかるようにショットを割って作られた。

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

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