日本 天活における枝正義郎の挑戦

 帰山教正に映画製作のチャンスを与えた天活は、1919年に枝正義郎監督に「哀の曲」の製作を許可している。

 枝正は、少年時代から吉沢商店の目黒撮影所で千葉吉蔵の指導を受け、カメラ技巧を持っていた。枝正が撮影した天活の旧劇は、他社の作品と比べて、場面転換も多く、現像も綺麗だったと言われている。

 「哀の曲」は、脚本・演出・撮影を枝正が担当した作品で、アメリカの理論ではなく、カメラマンとしての野望から純映画劇を目指したと言われている。出来上がった作品は、外国風の演出の帰山作品と比べて落ち着きがあり、舞台映画と映画劇の中間的形式に成功しているという。