その他の日本映画界 1919年−大正8年

 1919年8月15日、京都・新京極が劇場や映画館を「睦み日」として無料開放している。これは、松竹が主唱し、五条興行会が協力して行われたものだ。当時人々は、物価高などに不満を持っており、そういった不満を晴らしてもらおうというものだった。

 現在でも刊行されている映画雑誌の「キネマ旬報」が7月に創刊されている。創刊の中心となったのは田中三郎という人物で、高校在学中に仲間たちと創刊している。創刊号は4ページで、定価5銭、500部印刷した。12月には6ページになり、10銭に値上げを行っている。

 1917年に警視庁によって制定された「活動写真興行取締規則」の中に盛り込まれていた、「映画作品を事前検閲で15歳以上向きと15歳未満向きに区分し、年齢による入場制限を行う」という内容の項目が、この年撤廃されている。検閲基準が曖昧だったためと、少年向き映画が少なく興行的に問題が出たためと言われている。