クロース・アップ 愛すべきサイレント映画最大の武器

 クロース・アップ(大写し)。映画草創期においては、クロース・アップこそが映画最大の武器であるとまで言われた技法である。文字通り、顔であったり、手であったり、物であったりといった特定のものを、スクリーンに大きく写すのが、クロース・アップである。

 D・W・グリフィスが「発明」したとも言われるが、これは間違いである。グリフィスが映画界入りする1908年以前から、クロース・アップを使用した映画は作られていた。だが、グリフィスが映画話法を発達させる上で、クロース・アップを効果的に使用したことは間違いない。

 映画草創期において、映画は舞台よりも格下であるという位置づけに置かれていた。映画は舞台のようにセリフを味わうことはできないし、色はモノクロだし、実際の人間が演じる迫力も感じられないというのがその理由だった。そんな状況の中、映画は映画ならではの手法で、映画ならではの魅力を持った作品を生み出して、徐々にそうした定説を打ち破っていった。

 映画ならではの手法として真っ先に挙げられたのが、クロース・アップであった。舞台の客席からは、演じる役者の細かい表情の変化までは分からない。指先の微妙な動きは分からない。しかし、映画ではそれが表現できるのだ。クロース・アップという武器を得て、映画は悲しみの表情を、怒りに打ち震える拳を、主役に向けられる拳銃を描き出し、観客は舞台では決して味わうことの出来ない、映画ならではの表現から得られる、映画独特のエモーションに酔ったのだ。

 トーキーの到来により、映画は言葉や音も表現できるようになった。これにより、それまではクロース・アップでなければ表現できなかったものも、音を組み合わせることで表現できるようになった。例えば、列車の車輪を超クロース・アップで撮影することで、聞こえない音までが聞こえるように演出されていたものが、実際の列車の車輪の音を表現できるようになったのだ。

 サイレント映画は、私たちが生きる世界とは異なる不自然な世界だ。音もないし、色もない。クロース・アップの映像も、ある意味不自然だ。私たちはこんなにも人や物に接近して見ることはあまりない。しかし、そんな不自然な別世界だからこそ、クロース・アップという不自然な技法はマッチしたのかもしれない。

 トーキーになり、話法としてのクロース・アップの役割は小さくなったように感じる。確かに話をする人を映すのに、クロース・アップはあまりにも不自然だし、サイレントより現実の私たちの世界に近いトーキー映画においては、不自然さは気になりやすい。

 私が見事だと思うクロース・アップの使い方の1つに、D・W・グリフィス監督、リリアン・ギッシュ主演の「散り行く花」(1919)におけるワン・シーンがある。リチャード・バーセルメス演じる中国人青年が、リリアン・ギッシュ演じる少女ルーシーに近づいていくシーンだ。ここでは、バーセルメスの顔が超クロース・アップによって捉えられている。この異常なまでのクロース・アップで捉えられた顔は、無表情に近い。しかし一方で、バーセルメスのルーシーに対して性的な思いを抱いており、それを抑えつけていることも感じさせる。これほど見事に性的な欲望を描いたクロース・アップを私は知らない。

 映画は今もクロース・アップを効果的に使用している。しかし、音が付き、色が付いた現在の映画においては、あらゆる映画は映像と音の総合において語られ、クロース・アップもあくまでもただそれだけで効果を挙げるものではなくなっている。奇抜なショットや、観客を驚かせる仕掛けとしてのクロース・アップではなく、物語を語る上においては、クロース・アップはかつてのほどの役割を担わされてはいない。サイレント映画におけるクロース・アップは、音も色もないがゆえに強烈な印象を残した。そして、その印象はサイレント映画ならではのものであるがゆえに、非常に愛すべきもののように私には感じられる。