あなたの中のイーストウッドは枯れているか?

 私が知ったときのクリント・イーストウッドは、すでに枯れていた。そのイメージは消えない。イーストウッドの若かりし頃の作品を見ても、どうしても枯れたイメージがちらつく。私が知ったときのカトリーヌ・ドヌーヴは、きれいなおばさんだった。「シェルブールの雨傘」などを見ても、そのかわいさに驚くものの、やっぱり私の中のドヌーヴはきれいなおばさんなのだ。

 一方で、私が映画を見始めた時にすでに死んでいたり、引退して映画に出演していなかったりした人物にはそういった気持は起こらない。私にとってのイングリッド・バーグマンは、「汚名」や「カサブランカ」の美しい姿だ。オードリー・ヘップバーンといえば、真っ先に思い浮かぶのは「ローマの休日」の可憐さだ。

 何が言いたいかというと、同時代の映画への評価と、後世からの映画の評価が変わる理由の1つに、こういったことも影響しているのだろうということだ。

 たいしたことではないかもしれない。しかし、同時代の評価が低いために、今では見る人もいない映画の中には、同時代の事情を体感として分からないからこそ、楽しめるものもあるかもしれない。それが、正しいことかは別として、そういうことはあるだろう。私が今では見る人がほとんどいない昔の映画を見る理由の1つに、こういったこともあるのだろうなとふと思った。