日本 松竹キネマの設立

 1920年(大正9)、歌舞伎の興行会社であり、それまでも連鎖劇や映画の興行も行っていた松竹が、映画の製作・配給興行に乗り出し、松竹キネマ合名社が設立されている。

 松竹は、映画館が高収益を上げていることや、アメリカ視察に行った兄弟の末弟である白井信太郎がアメリカでの映画産業の様子を見てきたことが要因となって映画産業に参入したといわれている。

 松竹は、ジャーナリスト出身の田口桜村をアメリカに派遣し機材を購入、製作の方法を学ばせ、ハリウッドでカメラマンとして活躍していたヘンリー小谷をスカウトした。小谷はセシル・B・デミルの指導を受けており、松竹入社に際して、デミルからの推薦があったと言われている。アメリカから招いた技術者の指導の下に、ユニヴァーサル・スタジオをモデルにした撮影所が蒲田に作られた。9,000坪の敷地に、グラス・スタジオ一棟、ダーク・スタジオ一棟が建設されたという。

 蒲田は元々菖蒲園で有名な土地だったが、撮影所建設で駅前商店街は急激に発展を見せた。駅から撮影所に通じる東口大通りは銀座通りと呼ばれるようになった。