日本 松竹キネマの俳優学校設立

 松竹は、撮影所より前に俳優学校をつくり、新劇界で不遇をかこっていた小山内薫を校長として招いている。この俳優学校には、村田実、伊藤大輔島津保次郎牛原虚彦、鈴木伝明、成瀬巳喜男らが在籍した。

 村田実は、帰山教正の映画芸術協会に参加していたが、近藤伊与吉監督の「さらば青春」(1920)のロケ中に、演出意見の衝突から脱退し、俳優学校に招かれていた。

 試作品として、島津保次郎がシナリオを書いた「荒野」が選ばれ、田口桜村が演出にあたったが、製作は途中で中止されている。ちなみに、「荒野」のシナリオは、田口によってローマ字だけで書かれていたという。監督だけが内容を知り、俳優は監督の言うとおりに動くようにするためだったという。

 島津保次郎は、俳優学校に入る前に、逓信省貯金局の懸賞映画脚本に応募して、二等に当選したことがあった。小山内薫が懸賞脚本の選者だった縁で小山内の元を訪れ、俳優学校第一回作品の脚本書くように言われ、「荒野」を執筆したという。島津は自らの脚本で「寂しき人々(宿命の人々)」を監督したが、新しく使用したタイトル(字幕)の使用が弁士に反対され、タイトルは全部カットされたため、筋が通らなくなりお蔵入りとなってしまう。

 さらに、村田実監督、花柳はるみ主演の「奉仕の薔薇」が作られたが、西洋風俗の模倣でありすぎるためと、筋が通らなかったために公開は見送られた(後に公開)。撮り方も、演技も、編集法もわからないまま暗中模索で実験を重ねていたのだった。