日本 日活での牧野省三と市川姉蔵の活躍

 この時期の日活の京都では第一部と第二部に分かれ、牧野省三が第二部を担当していた。第一部は松之助映画、第二部は新しく入ってきた市川姉蔵映画を主に製作した。市川姉蔵は、芸はあるが特徴がないため、省三は一作ごとに目先を変えて意欲的に監督を行ったという。市川姉蔵の活躍に尾上松之助は動揺したと言われている。

 市川姉蔵は、もともと歌舞伎役者だが、普通の芝居にも出演していた。1920年に牧野省三に誘われて日活第二部に入社したのだった。牧野省三としてはスターとなって言うことを聞かなくなっていた尾上松之助を抑える目的もあったという。

 第一作「一条大蔵卿」(1920)で、姉蔵は顔に特徴が無かったが、気品のある公卿役はうってつけで大好評だった。

 市川姉蔵は人格者だったと言われている。立ち回りが不器用だったことを、「迷惑をかけて申し訳ない」と共演者にいつも謝っていたという。

 また、1919年3月に尾上松之助の紹介で日活俳優部に入社していた池田富保は、1920年に幹部俳優に昇進し、牧野映画に出演していた。牧野に師事していた池田は、松之助映画をリアリスティックな剣劇にしようと、匿名でシナリオを書き、会社に持ち込んだりしていた。そのシナリオの1つが松之助の目に留まり、松之助に気に入られるようになったという。