日本 国活の映画製作

 国活は、1919年に小林喜三郎によって設立された映画製作会社である。その国活は、1919年に日暮里撮影所が全焼し、巣鴨で天幕張りの仮説ステージを作って映画撮影を行っていた天活を吸収合併している。角筈十二社に撮影所を建設し、松竹から井上正夫、日活から桝本清を迎え入れ、桝本が所長兼撮影課長に就任している。井上と桝本が海外視察の旅にも出かけている。巣鴨では、旧劇と新派と純映画劇風の作品を製作した。

 そんな国活では、「寒椿」(1920)が製作されている。井上正夫主演のこの作品は、良家の出だった水谷八重子のデビュー作でもある。弁士が必要なく、女優が出演した映画として、革新的な映画でもあった。一方で、水谷八重子はタイトルに名前を出さなかったという。良家の子女が映画に出演することはまだ世をはばかることだったためであり、当時の日本映画界の状況の一端が現れている。

 国活は経営的に厳しく、経営不振から従業員の大量馘首を発表しストが起こっている。ストは、半月分の給料の支払いで妥結している。

 また、天活の吸収により、天活で映画制作を行っていた帰山教正が国活へやってきたが、国活内で排撃の声が高まり、帰山は国活を離れることになる。