日本 日活における映画革新運動
日活で映画革新運動を行い、1919年には「己が罪」を監督した田中栄三は、「白鳥の歌」(1920)を監督している。カット・バックのシーンがあったが、人気弁士の土屋松涛が片方のシーンをカットして自分で勝手に愁嘆場のセリフを用意して語ったと言われている。
「朝日さす前」(1920)でも脱演劇を目指した。従来の女形ではなく、日活が女優を入社させて作った最初の作品である。寄託金の使い込みがばれて行方不明になった株屋の店員とその妻、愛人の芸者の三角関係の物語である。
当時の日本映画界では、弁士の影響力が強かった。佐藤忠男は「講座日本映画1」の中で次のように書いている。
「文楽でも浄瑠璃の太夫のほうが人形遣いよりもスターであるが、無声映画時代の日本映画の観客の意識もそれに近かった」
日活では、ロシア革命時に捕虜になり虐殺された日本人の姿を描いた「尼港最後の日」を製作し、ヒットさせている。当時俳優だった衣笠貞之助が出演している。
ちなみに、日活にはこの年、後に大監督となる溝口健二が入社している。溝口は俳優希望だったが、助監督として採用されている。