日本 キネマ旬報の成長

 1919年に創刊されたキネマ旬報は、1920年1月の号にはユニヴァーサルから広告を出してもらえるようにまでなった。4月から13頁となり20銭に値上げを行ったのを機に、編集部を赤坂の弁士室階上の小部屋に移している。旬報の関係者が、弁士の徳川夢声と知り合いになっており、夢声の計らいで弁士室の階上を借りることができたのだという。

 創刊者の1人である田中三郎は、3月に大学を卒業したが、雑誌発行だけでは食っていけず、大阪に就職している。田中は大阪支部を作り、関西業界通信を担当した。そんな田中は大阪の会社を辞めて、映画の輸入を行う松竹の外国部へ入社し、タイトル(字幕)の翻訳などを行いながら、雑誌の編集も続けていく。