カットバックは襲われる女性と救助する男性だけのものではない

 彼女とのデートに遅れそうなとき、彼女が本当に何をしているのかを知ることは難しい。すでに待ち合わせ場所にいるかもしれないし、彼女も遅れそうで急いでいるかもしれないし、約束を忘れて他の男と遊んでいるかもしれない。そのとき何をしているのかを後で聞くことはできるが、本当かを確かめることは難しい。ライブカメラで見張るくらいしか方法はないだろう。

 映画では同時に2人の(それ以上の)人物が行っていることを描くことが出来る。2人の行動や2つの場所の出来事を平行して描く手法は、「カットバック」と言われる。

 「映画では」と書いたが、決して映画だけで使われる方法ではない。同時であることを明記することで小説でも使えるし、舞台を半分に分ければ演劇にも使うことが出来る。しかし、映画でのカットバックは、編集によってリズムを与えたり、クロースアップなどの他の映画的手法を交えることによって、映画独自のカットバックを作り上げることができる。

 「カットバック」という言葉の意味は、使う人によって違うようだ。「クロス・カッティング」という言葉がある。私は同じ意味だと思っていたが、「カットバック」は2人の行動を1回ずつ描くことで、「クロス・カッティング」は繰り返し描くことだと説明しているものもある。ここでは、「カットバック」と「クロス・カッティング」は、両方含めて同じ意味と捉える。

 「カットバック」を映画に効果的に使用した最初の人物は、ここでもまたD・W・グリフィスと言われている。強盗に襲われる少女たちの恐怖に脅える姿と、救助にやって来る男たちの姿を平行して描いた作品を、短編時代から監督している。「国民の創生」(1915)のラストで使われた、黒人たちに襲われる白人たちの様子と、救助に向かうKKKの騎馬隊の様子のカットバックは有名だ。

 グリフィスは確かに、映画史上においてカットバックを意識的に使用した最初期の人物として重要だ。だが一方で、グリフィスの使用法がカットバックの代表例とされてしまったことで、カットバックの本来の効果を忘れさせてしまったようにも感じられる。

 カットバックの本来の効果とは、決して同時に2つの場所の出来事を知ることができない人間に、2つの場所の出来事を教えることができるということだ。教えられる人物は他でもない。映画を見ている私たちである。

 映画の観客は、映画の登場人物たちと比べて、非常に特権的な立場にいるのだ。カットバックはその観客の特権的な立場を効果的に使った手法といえる。

 観客は、襲われている女性と、助けに行く男性が、同時に存在していることを知ると、ハラハラするだろう。観客は、彼氏の借金を返すためにある女性が必死に働いているのと同じ時に、彼氏が浮気しているのを知ると怒りを覚えるだろう。観客は、まだ出会っていない男女が、同じ時に同じ映画を見て感動しているのを知ると、2人の間に運命を感じるかもしれない。

 上に書いた例は、決してカットバックだけでしか表現できないものではない。だが、カットバックを適切に使うことで、観客はよりハラハラしたり、より感情を高ぶらせたり、より感動したりすることだろう。

 カットバックは、映画最古に磨き上げられた技法の1つだ。しかし、クロース・アップなどの他の技法と同じように、それだけで何かを表現できるものではない。他の技法と組み合わされることで、様々な効果を見る者に与えてくれる。その基礎となるのは、登場人物たちが知ることができないことを観客に知らせることができるということだ。カットバックは、襲われる女性と救助する男性だけに存在するわけではない。