完全無音映画鑑賞

 映画館で映画を見ていて、静寂のシーンになる。すると、途端にちょっとした物音が気になる。咳や食べ物を食べる音はもちろん、ちょっと体を動かしただけで生じる衣擦れの音まで。

 映画はかつてサイレントだった。サイレントとは「静寂」「無音」を意味する言葉だ。これは正しくもあり、間違ってもいる。映画自体は確かに音を持たなかった。だが、映画を上映する映画館が音を付け加えた。結果、映画を受容する観客は、音がついた状態で映画を見ていたのだ。

 音は時にオーケストラであったことだろう、オルガンだったことだろう。楽器を使って効果音が表現されていたかもしれないし、弁士が朗々と説明してくれていたかもしれない。とにかく大事なのは、映画を完全無音状態で見るという状況は稀だったということである。

 サイレント映画が上映されるときは伴奏や弁士つきの場合が多いし、市販されているソフト化されたサイレント映画の多くには音楽や弁士の説明がついている。だが、たまに完全サイレントで見ることになる場合がある。

 あなたは、完全無音状態で映画を見たことがあるだろうか?一度体験してみると良いだろう。慣れるまでは、とても居心地が悪い。私はフィルム・センターで完全無音状態のサイレント映画の長編を見たことがあるが、異様な体験だった。冒頭で挙げた静寂のシーンがずっと続いているような感覚なのだ。衣擦れの音でも気が引け、咳をする人間は犯罪者であるかのような雰囲気が漂っていた(そう感じたのは、私だけかもしれないが)。

 家で完全無音状態のサイレント映画を1人で見ていても、やはり最初は居心地が悪い。1人なのだ。自分の家なのだ。それなのに、なぜか物を食べる音を立てても、いけない気がしてしまう。

 よく考えると、完全無音状態で、他に何もせずに、何かをじっと見つめる時間というのは、現在の私たちの生活にはない体験だ。その普段ではあり得ない状態に放り込まれるというのが、居心地の悪さの要因の1つだろう。

 他にも要因はあるだろう。サイレント映画の上映において、観客の映画への参加は普通のことだったという。「参加」と書いたが、分かりやすくいうと、お喋りをしたり、スクリーンに向かって野次を飛ばしたり、喚声を上げたり、拍手をしたりといったことである。だが、トーキーになり、セリフが聞こえなくなったり、音を聞き逃せなくなったりすることで、映画を楽しめなくなることがあり、徐々に場内は静かになっていったという。

 私たちが映画を見るようになったのは、(ほとんどの人が)トーキーになってからだろう。だから、私たちは静かに映画を見ることが当たり前になっているのだ。私たちがしゃべらなくても、映画がしゃべってくれるのだから、問題はないのだ。

 という大前提は、完全無音状態のサイレント映画を前にすると崩れてしまう。だから、私たちは完全無音状態のサイレント映画を前にすると、お見合いでお互いが黙って顔を見合わせているような居心地の悪さを感じるのだろう。

 しかし、大丈夫。お見合いも相手が分かってくると違和感がなくなるように、完全無音状態のサイレント映画も慣れてくると普通になる。とはいえ、お見合いと同じで相手次第。苦手な映画の場合は、居心地の悪さはなくなっても、楽しい体験にはならない。