日本 松竹キネマ研究所の解散とメンバーたちのその後

 3作を製作した松竹キネマ研究所だが、「君よ知らずや」が不入りに終わったため、松竹内部から反研究所の声が聞こえるようになった。結局、儲からないという理由で解散させられている。研究所内でも、経済的に行うべきという島津保次郎牛原虚彦と、金はいくらかけてもいいという村田実や根津新の意見が対立していたという。

 中心人物だった小山内薫は映画界を去っている。牛原虚彦島津保次郎、鈴木伝明といった映画人は、松竹の蒲田撮影所にとどまり、活躍していくことになる。島津は「黒装束」(1921)を監督、以後順調にキャリアを重ねていく。

 伊藤大輔は、1921年と1922年の2年間に50本以上のシナリオを書き、シナリオ・ライターとして活躍する。村田実は、撮影に金をかける張本人として責任をとって松竹を辞任。国活を経て日活へ移り、日活現代劇映画の重鎮となることになる。

 こうして、松竹キネマ研究所の目的は完全に達せられることなく解散することとなるが、研究所の活動は決して無駄ではなかった。映画評論家の佐藤忠男は、「講座日本映画(1)」の中で次のように書いている。

 「帰山教正、トーマス栗原、小山内薫とその門下生たちなどによって火をつけられた映画革新運動、すなわち純映画劇運動は、こうして、たちまちのうちに日本映画のあり方を大きく変えた。女優の出演はふつうのことになり、数年のうちに女形は一掃される。まだ声色陰ゼリフの時代劇なども撮られたが、スポークン・タイトル入りで弁士もひとり、というあり方が一般的になる」

 一方で、松竹キネマは帰山教正が設立した「映画芸術協会」と提携している。