日本 牧野教育映画製作所の設立

 日活に所属していた牧野省三だが、日活から離れて自らの作りたい映画を製作したいという気持ちがあった。だが、日活側はなかなか省三の独立を認めなかった。日活で省三は、尾上松之助主演の「豪傑児雷也」(1921)を製作し、大ヒットさせている。「豪傑児雷也」は、現存する数少ない尾上松之助作品の1つである。

 そんな省三に対して、日活は尾上松之助・市川姉蔵共演の「忠臣蔵」の監督をしたら辞職を認めるという条件を出し、省三は了承した。完成した映画が、「実録忠臣蔵」(1921)である。完成すると、映画は大ヒット。日活は前言をひるがえして、省三の辞職を認めなかった。1921年の春には省三は日活の取締役となっている。

 それでも日活に退社を求めた牧野省三に対して、日活の社長の横田永之助は、教育映画のみを製作するということを条件に、退社を認めた。

 牧野省三は、1921年9月、等持院境内にスタジオを建て「牧野教育映画製作所」設立している。省三は、日活とは重役として関係を持っていたが、退職金は負債と帳消しになり裸一貫から出直し同然だった。

 日活の撮影所長は尾上松之助となり、池永三治(浩久)が次長となったが、池永は牧野のもとへ行きたがっていたと言われている。また、日活の俳優数人と、金森万象・沼田紅緑らスタッフ35名が牧野の元に駆けつけている。一方で大正活映が潰れたため、井上金太郎、内田吐夢、二川文太郎らの監督や、江川宇礼雄、高橋英一、渡辺篤といった俳優が入社している。また、俳優の嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)も参加している。

 牧野は、当時のニュースや内外の童話や児童読物から題材を得た作品を製作し、文部省の社会教育調査委員たちに強く支持されたと言われている。また、それまでの日本の映画製作ではアメリカのイーストマンのフィルムが使用されていたが、日本で初めてドイツのアグファの生フィルムを使用して効果を上げたと言われる。

 そんな牧野が製作した映画だが、日活の横田との約束で、一般の映画館では上映できなかった。そこで牧野は、マキノ工作所を設け、家庭用映写機の製造と、学校や寺院への教育映画のフィルム貸し出しを行った。地方巡回映写班も組織され、四国や静岡を回ったという。

 「能・狂言三題」(1921)は、岡本商会の依頼で、本願寺の後援を得て牧野教育映画製作所が製作した能楽映画である。「能・狂言三題」は、アメリカのフーバー大統領に献上され、ワシントンでお囃子入りの試写会が開かれて好評を博したという。また、牧野教育映画製作所と岡本商会とは日本初のニュース映画「シノグラム」を発行したが、牧野教育映画の終わりとともに終焉している。