日本 日活の変化

 日活でも、田中栄三を中心に、映画革新運動が行われていたが、成功はしていなかった。1921年に新たに女優を出演させるなど純映画的な作品製作を行う第三部門を設立した。女形スターの反発もあり、いい作品もできなかったという。女形には、独自の美学もあり、固定ファン層も存在していたという。

 尾上松之助映画を、リアリスティックな作品にしようとシナリオを執筆し、松之助にも気に入られていた池田富保は1921年に松之助の妹と結婚している。さらに、牧野省三の独立により松之助が日活撮影所長になった後、池田は監督に転向している。

 日活のスターとして活躍をしていた市川姉蔵は1921年に、撮影中の「佐倉宗五郎」の完成半ばにして、心臓麻痺で死去している。