松竹 蒲田映画の成功

 松竹蒲田が製作する映画は、製作本数が増えた。1922年の浅草松竹館では、それまでは外国映画も混ぜなければ足りなかったが、松竹映画のみで興行ができるようになった。

 松竹蒲田では、若い製作人が活躍した。1922年時点で、牛原虚彦島津保次郎は26歳、伊藤大輔は25歳、栗原すみ子は20歳だった。映画雑誌の若い記者も蒲田へ行くのを楽しみにしており、蒲田映画の後援雑誌「蒲田」も創刊された。そして、純映画劇に反対して来た声色弁士も、蒲田の声色なしの新派映画を解説するようになっていったという。

 ちなみに、撮影所のあった蒲田は、1922年に町制が敷かれて蒲田町となっている。初代町長は祝賀会で、土地発展の貢献者として蒲田撮影所に感謝の意を表したと言われている。