田中三郎と森岩雄とキネマ旬報

 映画雑誌「キネマ旬報」の創刊者の1人である田中三郎は、松竹の外国部に所属しながら雑誌の編集も行っていたが、この年松竹を退社して雑誌編集に専念している。この頃になると同人も増え、古川緑波飯島正なども参加していた。

 そのキネマ旬報では、1922年11月から「第八芸術貧燈録」の連載が森岩雄によって開始されている。森は後に東宝の副社長を務める人物である。連載では、それまで見世物とされ、低級に見られていた映画の美点、本質やトーキーの是非などを論じた。また森は、宣伝映画製作を目的にした中央映画社を、中曾根丈衛、友成用三とともに設立している。