充実してきた松竹の映画製作と興行

 アメリカ映画の要素を取り入れて新しい試みを行っていた松竹現代劇に対し、時代劇の分野では伊藤大輔脚本の「女と海賊」(1923)が製作されている。「清水次郎長」の好評を受けて製作された。松竹新時代劇と銘打たれた第2作で、上映時の声色や鳴り物を排して、タイトルのみで筋を通した作品である。京の商人小松屋は博多行きの便船に乗り込むが、それは海賊の船で・・・という内容の作品である。

 「女と海賊」を監督したのは、当時の松竹蒲田撮影所の所長だった野村芳亭である。野村は他にも、「母」(1923)や「実説国定忠治 雁の群」(1923)といった作品を監督している。「母」は、生みの母、育ての母、義理の母の愛情を描いた母物の定型的作品であり、女性客を中心とした蒲田映画の基礎とも言える作品であるという。


 関東大震災によってスタッフが京都に移ったが、島津保次郎は蒲田に残っていた。島津は、今までのような舞台の映画化ではなく、身近なリアルな題材の作品を作りたいという意見の城戸四郎に共鳴し、「お父さん」(1923)を監督している。明朗で写実的、話が簡単で日常茶飯事を取り入れた作品として評判となったという。島津は他にも、リアリズムがあったといわれる「山の線路番」「剃刀」(1923)などを監督している。

 「剃刀」は、非道な高利貸しを剃刀で傷つけ、牢屋に入る女の物語で、リアルに描かれているという。「山の線路番」は、山間に暮らす線路番が妻を亡くして再婚するが、後妻は娘をいじめる。娘は自殺し、起こった線路番が後妻を殺すという内容である。


 この頃にはスタッフも充実し、野村芳亭組、牛原虚彦組、池田義信組、島津保次郎組、大久保忠素組、森要組といったユニットが活躍していた。他に製作された映画としては、「狼の群」「自活する女」「水藻の花」「扉の罪」「帰らぬ人形」といった作品がある。「帰らぬ人形」は、1922年から監督として活躍を始めていた大久保忠素監督作で、高く評価されたという。震災を扱った「死に面して」「大地は怒る」「焔の行方」「十一時五十八分」といった作品も製作されている。震災を扱った映画には生々しいニュース映像も使われており、人心を動乱させると警察の検閲が入ったと言われる。


 松竹の映画興行の面では、大阪道頓堀に鉄筋コンクリートの日本初の本格的建築による松竹座がオープンしている。また、東京浅草の電気館も蒲田映画の封切映画館となった。