マキノ映画製作所の設立

 牧野省三の牧野教育映画製作所は、高野山の宣伝映画である「貧者の一燈」(1923)や「不如帰」(1923)といった作品や、衣笠貞之助監督の「不知火」(1923)などを製作したりしていた。衣笠は、田園物語を美しい自然とソフト・フォーカスで演出して人気を博したとも言われる。一方で、経営的には決してうまくいっていなかった。

 そんな中、女形の廃止を不満として女形スターと共に国活に移籍して重役となっていた石井常吉も、思うように映画製作ができずにいた。

 石井は牧野省三に新会社の設立を依頼し、牧野はそれに応じた。牧野は日活の重役の職を辞し、牧野教育映画製作所を吸収する形で、マキノ映画株式会社を設立した。これまでの「牧野」を子供でわかるように「マキノ」に変え、監督として活躍した二川文太郎がM・PICTUREのタイトル・マークを考案した。以後牧野省三はプロデューサーに専念し、監督の金森万象や脚本家の寿々喜多呂九平が中心となって作品を発表していく。

 マキノ映画製作所は、国活の委託撮影の注文を受ける形で、劇映画製作も再開した。1923年4月に、国活が極度の経営難に陥り、国活からマキノへ移るスターもいた。その中の一人が阪東妻三郎である。

 ちなみに国活でも映画製作が行われていた。当時革新的と言われた映画「哀の曲」(1919)を作った枝正義郎が、原作・脚本・監督・撮影を1人でこなした野心作「幽魂の焚く炎」(1923)などである。戦国時代の武将が同僚に裏切られたのを恨み、業火となって末代まで苦しめ・・・という内容の作品だった。