帝キネへの伊藤大輔の加入

 帝国キネマ(帝キネ)は、1923年5月に兵庫県芦屋に現代劇専用の撮影所を作り、「愛の扉」「森訓導鉄路の露」といった女形なしの作品を撮り始めていた。また、国活の瓦解で閉鎖になった巣鴨撮影所を利用し、東京進出を果たし、伊藤大輔や帰山教正を獲得している。

 1920年から1923年まで松竹・蒲田で膨大な本数のシナリオを執筆していた伊藤大輔は、監督を志して帝国キネマへと移籍した。帝キネでも最初は脚本を担当していたが、1924年に監督デビューを果たすことになる。

 関西にスタジオを持っていた帝キネは、震災で足りなくなった供給に応えるため、1ヶ月に14本の作品を大量生産したという。