ボロボロの苦難の結晶「グリード」とシュトロハイムの涙

 D・W・グリフィスやセシル・B・デミルと共に、初期アメリカ映画界の三大監督のひとりと言われる一方、1923年に「メリー・ゴー・ラウンド」の監督から降ろさる苦汁をなめたエーリッヒ・フォン・シュトロハイムは、「グリード」(1924)を監督している。フランク・ノリスの原作「マクティーグ」を元にしたを原作とした「グリード」は、人間の貪欲さを徹底的に描き出そうとした、ヨーロッパ的な格調をもって描き出した退廃と放蕩が特徴の作品である。ちなみに上映に際しては、金貨、金歯、鳥かご、金色のベッドといった金に関する物質には人工着色されたという。

 完璧主義者のシュトロハイムは、セットではなく実際の建物を使って撮影を行い、当時ほとんど人もいなかったデス・バレーの灼熱の中でも撮影を行った。また、その完璧主義からスタジオ所長クラスの人間さえ、立ち入り禁止で撮影が行われたという。

 こうして撮影された「グリード」の最初の編集版は47巻(約12時間)あり、シュトロハイム自身が24巻(約6時間)に短縮した。しかし会社側はさらなる短縮を望み、映画監督のレックス・イングラムに依頼して18巻(約4時間半)とした。

 シュトロハイムにとって不幸だったことに、元々はシュトロハイムサミュエル・ゴールドウィンとの間で契約が結ばれていたのだが、契約を結んだゴールドウィン社が1924年してMGMとなり、契約相手が代わったことがある。MGMの実権を握ったルイス・B・メイヤーの右腕である製作者のアーヴィング・サルバーグによって、さらなる短縮が行われたのだった。

 合併したばかりのMGMはメトロ派、ゴールドウィン派、メイヤー派に分かれて、バラバラだったという。メトロ派の監督にはレックス・イングラムゴールドウィン派の監督にはシュトロハイム、ヴィクター・シェーストロームフランク・ボーゼージがいたという。サルバーグはもちろんメイヤー派であり、「グリード」のカットには派閥争いの面もあったという見方もある。

 ユニヴァーサルで製作された「メリー・ゴー・ラウンド」(1923)の製作の際に、シュトロハイムをクビにしたのもサルバーグだった。会社が代わったにもかかわらず、顔を合わせることになった2人の関係は運命的とも言える。サルバーグは、この出来事で名を高め、1920年代半ばから30年代にかけてMGMの黄金時代を築き上げて、「ハリウッドのプリンス」と呼ばれる。一方のシュトロハイムは呪われた監督として、映画史に名を残すことになる。

 当時、一般的な長編作品の上映時間は1時間半前後に落ち着いていた。1日の上映回数という興行上の問題、人間の集中力という生理的条件、製作コスト、社会的な生活時間の流れなどから1時間半程度になったと考えられている。シュトロハイムは、時代に反する上映時間の長さも一因となって、監督としての道を閉ざされることとなる。

 シュトロハイムは時代の流れに逆らった反逆児だったために、監督としてのキャリアを閉ざすことになったのだろうか?そうした面もあるだろう。一方で、ジョルジュ・サドゥールは、映画製作の主体が製作者=プロデューサーへ移り変わっていく時代に起こった、1つのデモンストレーションだったと指摘している。「世界映画全史」の中で次のように書いている。

「実を言うと、これらの削除は、より一般的な判断から決定された。つまり、以後、プロデューサーなる一人の男が映画芸術についての全権を掌握することをハリウッドの残りの人たちに示すために、有名な監督を命令に従わせたのである」

 MGMは製作費を200万ドルと発表したが、それは実際より多かったと言われている。宣伝のためと、シュトロハイムが浪費しているように思わせるためだったのではないかと思われる。

 シュトロハイムにとって、映画を監督するということは単なる仕事ではなかったようだ。それは、我が子を産み落とすように苦しく、それゆえに産まれた作品は愛おしいものだったに違いない。その証拠に、シュトロハイムは、短縮された版を25年間も見ることを拒み、1950年に見たときには涙を流したという。そこにシュトロハイムは何を見たのか?少なくとも、私たちが「グリード」について、映画史的にとか、芸術的にとか言った言葉で語るようなものは、シュトロハイムにとっては関係なかったことだろう。自分が生み出した子供の変わり果てた姿に、ただただ涙するだけだったのだろう。


【関連記事】
映画評「グリード」


グリード《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

グリード《IVC BEST SELECTION》 [DVD]