城戸四郎の松竹蒲田撮影所長就任と、蒲田調の成立

 野村に代わって所長となったのが、城戸四郎である。城戸は、1922年に松竹入社した人物である。松竹社長の大谷竹次郎と家同士が知り合いで婿となり、営業部、経理部を経験した後、製作担当重役となっていた。1924年に蒲田撮影所長となった時は30歳で、現代劇映画に新スタイルを打ち立てたと言われている。そのスタイルは蒲田調として、親しまれていくことになる。

 城戸は、就任の日に門の近くにあった大道具・小道具の建物に入り、そこにいたメンバーに挨拶をしたという伝説が残っている。これは、製作スタッフの1人として平等に付き合うという意思表明だったとも言われている。一方で、何でも知ったふりをして、自論自説を曲げなかったとも言われる。

 城戸は当時の映画界では珍しい東大出身だった。当時東大出身は監督の牛原虚彦くらいだったという。城戸と牛原は2人とも、英語にも強いモダンなエリート青年だった。蒲田は、ハリウッドから大幅に技術システムを導入し、アメリカ映画のようなモダンな映画を作ったという。一方では、古くからの松竹系の演劇出身者が新派悲劇調映画を作り、ヒットさせるという構造となっていた。

 城戸は映画青年たちの兄貴分的存在だったと言われている。所長室以外に脚本部にも机を置き、若い監督や脚本たちと意見交換を活発に行ったという。斎藤寅次郎小津安二郎は、師匠の大久保忠素監督の作品を、自分ならこう撮るなどと城戸の前で語って、才気を認められ監督となったという話もある。彼らは、仕事がなくても撮影所にやって来て、議論をした。城戸は所長室にいたためしがなく、スタッフの意見を聞き、自分の考えを述べ、撮影所全体を活性化させたという。

 脚本を重視した城戸は、脚本家の充実を図り、脚本部相談役に畑耕一を、脚本部長に落合浪雄を迎えた。自身も脚本部室に一席設け、脚本へのアイデアを出したという。城戸がアイデアを出した作品には、「坊やの復讐」(1924)などがある。さらに、ダーク・ステージを2棟建設して撮影体制を増強させてもいる。

 城戸は、野村芳亭の新派的題材を避け、明朗な庶民喜劇を奨励した。題材は日常の現実生活から見出し、社会風刺と健康的な恋と笑いを求めたという。こうした中から生まれてきた方向が「蒲田調」と呼ばれるものとなった。