帝キネの引き抜き工作

 帝国キネマは大阪唯一の映画会社で、大震災の影響をほとんど受けなかった。東京に現代劇部を持っていたが、大震災後に解散した。さらに、伊藤大輔を大阪に迎えて、従業員も増やした。製作体制を増強した帝キネからは、「嘆きの曲」「落城の唄」といった作品が送り出されている。だが、多くの作品は新鮮味がなく、ヒットしなかったという。

 そんな帝キネに、東亜キネマの立石駒吉が触手を伸ばした。立石は、東亜が帝キネの株を購入して重役を派遣する案を提示し、帝キネは一時受け入れた。だが、現場から反対が起こり、結局は立石が帝キネの株を買ったことにして、立石だけが重役として入社する形で落ち着いた。

 「籠の鳥」(1924)は、帝キネ始まって以来の大当たりをとった作品である。「逢いたさ見たさに怖さもわすれ・・・」という歌詞の流行歌をテーマソングとした作品で、愛する男がいながら無理やり他の男と結婚させられた娘が、最後には絶望の果てに死んでしまうというメロドラマだった。低予算の製作費と5日ほどのロケで撮影された作品だったが、費用の100倍以上の17万円の純益を上げたという。帝キネは続いて、「続籠の鳥」(1924)を製作した。このヒットを受けて、松竹、日活、東亜キネマも流行小唄を取り入れた小唄映画を製作したという。小唄映画では、弁士の代わりに、歌姫がソプラノで小唄を歌ったのだった。

 帝キネは10月に、「籠の鳥」のヒットで得た資金を元にして、東亜キネマの阪東妻三郎やスタッフなど25人を引き抜いた。これによって東亜シネマの等持院スタジオは製作不能に陥った。さらに帝キネは、日活、松竹の俳優やスタッフにも働きかけ、かなりの数の俳優が帝キネに移籍した。帝キネは、各地の映画館に電報を打って、人気俳優の入社を宣伝し、帝キネの映画の配給を申し込むように促したという。さらに立石は、帝キネ小坂撮影所の所長となり、「髑髏の印籠」(1924)を製作している。

 この引き抜き工作は、結果としてうまくいかなかった。薄給と悪条件で働いてきた旧来の帝キネ社員と、厚遇の新入社員との間で不和が生じた。さらに、せっかく引き抜いた阪東妻三郎は、姿を隠したまま行方不明になってしまったのだった。

 こんなキナ臭さ漂う帝キネから1人の監督がデビューしている。伊藤大輔である。

 御用脚本家を嫌い、映画監督を志していた伊藤大輔は、帝国キネマの「酒中日記」(1924)で映画監督デビューを果たす。その後、「坩堝の中に」「血で血を洗ふ」「星は乱れ飛ぶ」「剣は裁く」(旧劇)「熱血を潜めて」(1924)などを監督している。