その他の日本映画 1924年

 純映画劇運動を推進するため映画芸術協会を結成していた帰山教正は、「愛の曲」(1924)を製作したが、興行的に振るわなかった。この頃になると、新しい人々が帰山の動きと連動しながら新しい流れを作っていたが、帰山自身は不遇の晩年を送ったと言われている。

 文部省は東京シネマ商会を使って、多くの教育映画を製作していた。1924年には、「日本アルプス縦走」(1924)が製作されている。