帝国キネマ 引き抜きの果ての没落 1925年

 1924年に、他社から多くの役者やスタッフを引き抜いた帝国キネマだったが、給料などの待遇差への不満から、旧来から帝国キネマにいた蘆屋撮影所全員が1月に辞表を提出した。引き抜きを画策した立石駒吉が、撮影所長の権限で全員をクビにした。そして、帝国キネマ側も社長以下全役員が辞職し、新社長は撮影所を閉鎖し、全員が解雇された。

 撮影所閉鎖まで残っていた帝国キネマの従業員は立石駒吉が作った東邦映画製作所へと移籍し、小坂撮影所を借りて撮影を行った。「四谷怪談」「運兵正戦」などが作られたが、1925年6月に給料不払いが元で解散することとなる。

 一方で、1月に辞表を提出してクビとなった蘆屋派は、アシヤ映画製作所を作って帝国キネマに映画を売るようになった。少年俳優の市川百々之助主演の「長兵衛売出す」(1925)などを製作し、流行となった。