東亜キネマ マキノ省三と寿々喜多呂九平の映画製作 1925年

 1924年に、マキノ省三のマキノ映画製作所は東亜キネマに吸収合併された。牧野は会社とかけあい、自由な映画製作を認めさせ、配給は東亜キネマが担当するという形だった。その東亜キネマでは、小説家の直木三十五たちの斡旋で、当時売り出し中だった新国劇沢田正二郎を連れてきて、1週間で「国定忠治」「恩讐の彼方に」(1925)を製作した。だが、マキノから来た従業員が営業製作の改革や待遇改善を訴えたり、営業部長の立花良介は東亜を飛び出してしまったり、阪東妻三郎が帝国キネマに引き抜かれたり(結局は1本も出演せずに東亜キネマに復帰する)と決してうまくいっていなかった。

 そんな状況の中、スター脚本家となった寿々喜多呂九平は、「怪物」(1925)、「影法師」(1925)といった作品の脚本を書き、ヒットを飛ばしている。

 「影法師」は、男女の愛欲で彩られた捕物帖である。帝国キネマから復帰した阪東妻三郎月形龍之介に、マキノ輝子演じる女賊が絡む内容の作品だ。快適なスピード、人間味、写実的な立ち回りが人気を呼び、阪妻の人気が決定的となったと言われる。他にも阪東は、「恋と武士」「墓石が鼾する頃」「三人姉妹」(1925)に出演している。

 映画に重要なのは「1すじ 2ヌケ 3動作」という信念を持っていたというほど、シナリオを重視した牧野省三は、脚本家を重用した。1925年には西条照太郎を脚本家としてデビューさせている。