「月形半平太」 連合映画芸術家協会の第一作 1925年

 連合映画芸術家協会の第一作として、新国劇の当たり狂言である「月形半平太」(1925)が、牧野省三と提携し、衣笠貞之助監督で作られた。製作開始の矢先に、撮影が行われていたマキノの等持院スタジオが不審火で焼失したり、主演の沢田正二郎が昼は映画に出演、夜は舞台と寝る間もないほどのスケジュールで撮影が行われるなど、苦難の連続だった。あるシーンで衣笠と沢田の意見が対立し、牧野省三が演出にあたったという。

 完成した映画はヒットしたが、自由配給を考えていた牧野省三に対して、東亜キネマは等持院の東亜スタジオで撮影したために自社作品としたがった。この対立により、牧野は東亜を去ることになる。

 牧野に去られた東亜キネマは、不調に陥ったと言われるが、「河童妖行記」「お艶殺し」(1925)といった作品が製作されている。