マキノ・プロダクションの設立と独立プロの興隆 1925年

 東亜キネマを去った牧野省三は、1925年6月にマキノ・プロダクションを創立し、御室天寿ヶ丘に撮影所を建設している。脚本の寿々喜多呂九郎、監督の沼田紅緑、井上金太郎、金森万象、衣笠貞之助らが東亜からマキノへ移籍した。第1作は沼田紅緑監督「討幕の叫び」である。「奇傑鬼鹿毛」「文明の復讐」「黒髪地獄」(1925年)といった現代劇も作られたが、あまり受け入れられなかったという。

 「文明の復讐」は、仇討ち禁止令の発布された明治初期に、仇討ちの方法が変わったことから起こるドラマを描いた異色作である。父の仇を探して旅に出た青年は、仇討ち禁止令が出たために巡査となり・・・という内容の作品だ。

 マキノ・プロダクションが独立プロとして成立し、いくつかの配給会社が支援しだすと、様々な独立プロができた。奈良では帝国キネマにいた中川紫郎が、東邦映画の壊滅で自立した伊藤大輔が、東京ではスタジオを建てて高松プロダクションを設立した高松豊次郎が、それぞれ独立プロダクションを設立した。牧野省三の動きは、全国の映画人に影響を与えたのだった。