伊藤大輔の流浪の監督生活と山本嘉次郎 1925年

 1924年に帝国キネマで監督としてデビューした伊藤大輔は、東邦映画へ移籍している。そこで伊藤は、ロシアの小説家であるツルゲーネフ作品の翻案「煙」(1925)を監督した。若い大学生が没落華族の娘と恋仲になるが、女は裕福な軍人と結婚してしまう。数年後に2人は再会するのだが・・・という内容の作品だが、今ひとつの出来だったという。その東邦映画も潰れ、伊藤は連合映画芸術家協会と提携して、伊藤映画研究所を設立している。

 牧野省三が所属していた頃の東亜キネマで監督をしていた山本嘉次郎は、高田稔主演の喜劇の「爆弾児」(1925)で好評を得るなどの活躍をしていたが、牧野がいなくなったために、嫌気がさし、マキノ・プロダクションの東京撮影所へと向かい、「輝ける扉」(1925)を監督・出演している。