松竹 城戸四郎のディレクター・システムの実行と斉藤寅次郎のデビュー

 松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎は、それまでのスター中心の映画作りを廃し、ディレクター・システムを実行しようとした。そこで島津保次郎を先頭に、五所平之助小津安二郎清水宏成瀬巳喜男斎藤寅次郎らの新鋭にチャンスを与えた。

 斎藤寅次郎は1926年に監督としてデビューしている。「桂小五郎と幾松」(1926)は、監督が撮影中に急病になり、助監督の斎藤がピンチヒッターとして監督を行った作品である。試写では所員たちがゲラゲラ笑い、試写の後に斉藤は城戸に呼ばれて、「おもしろい。これからはナンセンスで行け」と言われたという。

 松竹の監督として活躍していた古参の牛原虚彦は、牛原は1926年にアメリカへと渡った。牛原はチャールズ・チャップリンの撮影所で見習いとなり、帰国後の松竹蒲田で健全なアメリカニズムを日本に移植して活躍を続けた。