松竹 阪東妻三郎プロダクションと契約

 自身のプロダクションを設立後、牧野省三の協力の下に、「雄呂血」(1925)などを送り出していた阪東妻三郎プロダクションは、製作4作目の「尊王」(1926)から松竹キネマと配給契約を行うことになった。

 これにともない、阪東プロは下加茂スタジオへと移り、「無明地獄」「蜘蛛」(1926)などを製作した。さらに、太秦阪妻プロのためのスタジオが新築され、1926年5月半ばに太秦スタジオに移って映画製作を続けた。

 この出来事は、大手映画会社の連盟と、それに対抗した独立プロの連盟の両者が、無意味となったことを意味した。

 「蜘蛛」は、松竹キネマによって配給された作品だ。阪東妻三郎が、マキノ時代の名コンビ寿々喜多呂九平のシナリオに久しぶりに出演し、化政時代を背景に反逆児の乱闘を見せた。放埓な旗本息子が泥酔の果てに、先祖伝来の名刀を盗まれ、嘲笑を浴びせられ・・・という内容の作品である。