「狂った一頁」 衣笠貞之助の夢と挫折

 1925年に、連合映画芸術家協会とマキノ・プロダクションの作品「日輪」を監督した衣笠貞之助は、映画のためのメモもできないほどの極度のスランプに陥り、市川猿之助一人二役を演じた「天一坊と伊賀之亮」(1926)以外は映画を監督できずにいた。思いのままに映画を作りたいと思った衣笠は、牧野の元を離れることを決意した。また、衣笠が苦しい状況にいたある日、給料を払っていた牧野省三の妻に「高い金を払っているのに」と言われたのが決定的だったという話もある。

 衣笠は独自の映画連盟を興した。「新感覚派映画連盟」と名づけられた連盟には、「日輪」の製作で衣笠貞之助横光利一が親しくなっていたこともあり、作家の川端康成横光利一岸田国士らが積極的に協力してくれたという。家の地下室が谷の流れに面していたので自宅に現像場を作り、上海からカメラを手に入れて準備を整えたと言われる。

 衣笠は、かねてから考えていた「サーカス物語」を作ろうと思い、岸田国士が「ゼンマイの戯れ」という小喜劇風シナリオを執筆したが、製作には至らなかった。その後、松沢の精神病院を見学し、老妻が狂人となって精神病院に入れられ、亭主が病院の用務員となって様々な幻覚に悩まされるという物語とすることにし、川端康成と練って、「狂った一頁」(1926)のシナリオが完成した。

 「狂った一頁」のスタッフは大半が20代で、松竹の白井信太郎副社長が貸してくれた京都下加茂の撮影所で、合宿しながら昼夜を問わず撮影が行われたという。衣笠は私財を投じ、配給会社も決まっていない状態での自主作品として製作が行われた。当時新しい演劇活動を続けていた井上正夫が主演し、井上は頭髪を抜いてまで役に打ち込んだ。杉山公平のカメラワークも日本映画の1つのエポックと言われ、評価された。

 冒頭シーンは短いショットを積み重ねているが、撮影機をムビオラ代わりにして、苦労しながら編集を行ったという。