マキノ・プロダクション 市川右太衛門の退社と嵐長三郎と片岡千恵蔵のデビュー

 マキノ・プロダクションでは、1925年にデビューしてからスターとして大活躍を見せていた市川右太衛門がマキノを退社し、独立プロである市川右太衛門プロを設立している。市川は最後にお礼奉公として「影法師」に無給で出演したという。さらには、牧野省三の長年にわたる協力者だった沼田紅緑監督が1927年に死去し、マキノ・プロは重ねて打撃を受けた。

 一方で市川右太衛門の後釜として2人のスターが活躍している。嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)と片岡千恵蔵である。

 嵐長三郎は主演デビューの「鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子」(1927)が生涯の当たり役となり、常に鞍馬天狗のイメージがついて回り、大人より子供に人気があったが、本人はそれでよしとしていたという。

 片岡千恵蔵は、「万花地獄」(1927)でデビューし、美剣士として活躍した。

 牧野省三は、嵐は評価していたが、片岡はあまり評価していなかったと言われている。そのため、嵐には人気監督をつけたが、片岡には若手監督や二線級の監督をつけ、待遇面でも嵐の方がうえだったという。