佐々元十の労働者のための映画製作

 興行映画の流れとは異なるドキュメンタリーの流れにおいて、大きな流れが芽生えていた。その発端は、1927年に左翼映画批評家の佐々元十が、金持ちのおもちゃだったパテ・ベビーと呼ばれる9ミリ半の家庭用カメラで撮影した、「1927年東京メーデー」が作られたことだった。

 佐々は、労働者の武器として映画を使うことを決意し、日本プロレタリヤ芸術連盟所属のプロレタリヤ劇場映画班を創設したのだった。当時、資本の必要な映画は、闘争の武器とは考えられていなかったが、小型映画を採用することで、体制の弾圧を避けて映画を撮影することができたのだった。

 佐々の努力は、日本プロレタリア映画同盟へとつながっていく。