日本映画(1906)

 この年、エム・パテー商会という会社が設立されている。

 エム・パテー商会は、南洋帰りの壮漢と言われた梅屋庄吉がボスで、輸入の特約を結んだフランスのパテ社の名前を社名に使った。梅屋は香港や南方で興行を行い、1906年(明治39年)に帰国したときには、パテの映画をたくさん仕入れてきた。そのフィルムを元に、吉沢商店に協力を得ながら、興行を行った。また、映画を通して国家に貢献することを目的とした梅屋は文化映画を番組に入れ、官庁から応援を得たりした。

 またこの年は、労働運動家の高松豊次郎が社会パック活動写真を制作している。千葉吉蔵が監督・撮影を担当した。パックとは漫画の意味で、漫画的な発想による社会風刺を目的とした短編コント集である。高松自身が芸人でもあり、さまざまな芸人が出演したという。高松はこの後も、多くの社会啓蒙映画を作っていく。