D・W・グリフィスが幸せだったのはいつか?

 D・W・グリフィス。映画史に少しでも興味の或る人物が、まず最初にぶつかるのがこの人物である。「映画の父」とまで言われたグリフィスは、「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)といった超大作で、映画に足跡を残し、その足跡を今でも私たちは見ることができる。

 グリフィスは元々舞台人志望から映画界に入り、映画の表現力に魅せられ、映画監督としての道を歩み始めた人物である。その道程は、映画が辿ってきた道と同じであるといってもいい。映画は最初、舞台やボードヴィルの出し物などの代用品のような扱いだった。映画は舞台(や小説など)の先行する芸術よりは下に見られていた。舞台俳優たちは映画に出演することを恥と思っていたし、金を稼ぐ手段としてやっつけで仕事をしていた監督も少なくなかった。

 そんな中、映画を信じ、映画のために身も心も捧げたのが、D・W・グリフィスという人物なのだ。グリフィスの真の功績は、「国民の創生」や「イントレランス」にあるのではなく、映画は人生を費やすに足る存在だと言うことを、身をもって示してみせたことにある。

 そんなグリフィスは、自らの映画に出演する役者たちを育て上げた。舞台の一座のように、グリフィスは契約した特定の役者たちを磨き上げ、彼らと運命を共にしたのだ。1908年から映画を監督し始めたグリフィスは、その方式で自らが信じる映画を作り続けてきた。

 グリフィスの映画に出演した役者たちは、グリフィスの映画の中で素晴らしい演技を見せてくれている。女優ではブランチ・スウィート、メイ・マーシュなどが印象に残る(メアリー・ピックフォードは、不思議とあまり印象に残っていない)。男優ではロバート・ハロンが代表格だろう。そして、リリアン・ギッシュだ。グリフィスの作品に溶け込み、後には乗っ取ってしまうほどの活躍を見せる。

 グリフィスは、こうした役者たちを自分色に染めた。そして、役者たちはグリフィスに応えた。もちろん、グリフィスが映画撮影を率いたことは間違いない。しかし、どういったストーリーを、どういった撮り方をすればよいのか?どういった演技が映画に向いているのか?そういったことを模索していた時代である。グリフィスは、リーダー・シップを発揮しながらも、試行錯誤し、仲間たちの意見に刺激されながら、信じる映画を実現していったのだ。

 役者以外にも、長年グリフィスとコンビを組むビリー・ビッツァーの存在を忘れてはならない。職人ビッツァーの確かな腕があったからこそ、グリフィスは様々な試行錯誤を行うことができたのだ。

 グリフィスは信頼のおける仲間たちと共に、信じる映画を作り上げていき、自信を深めたことだろう。その自信は、「国民の創生」や「イントレランス」へとつながっていくことになる。

 グリフィスの表向きの人生のハイライトは、「国民の創生」が大ヒットしたときだろう。そして、映画人としてのハイライトは、すさまじい規模の映画を思うままに監督するという、以後の誰もできないことを実践した「イントレランス」を撮影していたときかもしれない。

 それでは、グリフィスが最も幸せだった時代はいつだろうか?私は、1908年から1915年公開の「国民の創生」を撮り始める前だったのではないかと勝手に思っている。仲間たちに囲まれ、映画という新しいフロンティアを信じて開拓していく道程は、辛いことが多くあっても充足感に満ち溢れたものであったことだろう。

 1918年にグリフィスは、グリフィスとトマス・H・インスとマック・セネットのために作られたと言っても過言ではないトライアングル社の解散などもあり、パラマウント系のアートクラフト社と契約する。それは、かつて自分が育ててきた俳優陣「グリフィス組」の解散を意味した。それは、グリフィスにとっての幸せだった時代の終わりを意味しているように感じられる。

 もちろん、グリフィスは以後も素晴らしい作品を監督している。それは映画監督として、芸術家としての功績ではあることだろう。しかし、グリフィスの真の功績が、映画が一生を棒に振るに足る存在であるということを、身をもって示した点にあるとしたら、それは「国民の創生」以前のグリフィスにある。もし、その時期がグリフィスにとっても幸せだったとしたら、それほど喜ばしいことはない。映画にとっても、グリフィスにとっても幸せな時間だったと言うことになるから。

リリアン・ギッシュ自伝―映画とグリフィスと私 (リュミエール叢書)

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