1913年のドイツ映画と「プラーグの大学生」

 1912年にトラストの実現が失敗に終わったドイツでは、分散状態で各社で映画製作が行われていた。

 D・K・G社(デーカーゲー社)は、フランスのゴーモン社から若い女優を引き抜いた。演出にもフランス人が多く、フランスでも撮影されたという。

 P・A・G・U社(パーグ社)は、ドイツ演劇の大演出家マックス・ラインハルトと契約し、著名な小説家も映画化権をパーグ社に売るようになった。映画と演劇や文学の間の障壁は崩れたが、製作された映画は、芸術的にも商業的にも失敗したという。

 オスカー・メスターは、ドイツ人の原作ものや、ワグナーの伝記映画である「リヒャルト・ワグナー」(1913)などを製作している。

 「リヒャルト・ワグナー」は、カール・フレーリッヒ監督による3,500メートルの長篇であり、製作費6千マルクの大作だった。ドイツ人の自負心を満足させたと言われている。

 ラインハルト劇団の俳優から映画界入りしていたエルンスト・ルビッチは、この頃から喜劇映画に出演して人気を博すようになったという。ルビッチは、シナリオや演出を担当するようにもなり、自作自演で多くの短編映画を発表した。

 1913年にドイツで製作された映画の中で、「ドイツ映画の誕生」と言われたほど有名な作品が「プラーグの大学生」(1913)だ。

 「プラーグの大学生」(1913)は、コペンハーゲンの舞台演出家でデンマーク映画の監督だったシュテラン・ライ演出を、小説家のハンス・エーヴェルスが脚本を担当し、マックス・ラインハルトの劇団の中でも最も有名な俳優の一人だったパウル・ヴェゲナー主演(演出助手も)で製作された。高額な製作費がかけられ、二重焼きを多用した。

 内容は、主人公の男性が、悪魔の助けを得て愛する女性を手に入れるが、悪魔が作り出した分身が自分の代わりに行動するようになるというもの。幻想性や不気味さ、暗さが特徴である。

 ヴェゲナーは、幻想的なものや怪奇的なものに興味を持ち、映画のトリックの技術を応用して、自分の思い描く幻想的世界を表現したいと考えた。ヴェゲナーは友人のエーヴェルスに相談、エーヴェルスも興味を持っていたため、協力してシナリオを執筆することになった。ヴェゲナーのラインハルト劇団の同僚ヴェルナー・クラウスとヴェゲナーの妻リディア・サルモノワが共演した。セットはラインハルト劇団の有名なデザイナーだったハンス・ピルツィッヒ担当。撮影は1897年以来映画のカメラマンを務めていたキンド・シベールだった。

 岡田晋は、「ドイツ映画史」で「プラーグの大学生」の中に、「画面の造形性を重んじるドイツ映画の方向性が、すでにこの時からはっきり示されている」と述べている。

 「プラーグの大学生」は各国に輸出され、ドイツ映画の名声を国際的に高め、ヴェゲナーは自身を得た。

 ライとヴェゲナーはドイツ映画の土台を作ったと言われ、2人は、ドイツの古い伝説を映画化した「ニッセン」(1913)も製作している。2人の協力は第一次大戦によって絶たれてしまうことになる。

 また、ラインハルト演劇がドイツ映画にすぐれた演技を提供し、舞台装置にもラインハルト演劇の影響があると言われている。

 ドイツの映画史家ジーグフリード・クラカウアーは、著書「カリガリからヒトラーまで」の中で、1920年代にドイツで製作された多くのホラー、ファンタジー映画が、ワイマール時代からファシズムに傾斜していった当時の政治的・経済的混乱を反映していると論じている。そして、こうした状況とドイツ伝統のゴシック文化が結びつき、極めてユニークな作品が作られたのだという。

 「プラーグの大学生」でも描かれた二重人格やドッペルゲンガーは、ドイツ映画で繰り返し取り上げられることになる。「プラーグの大学生」自体も、2回リメイクされている。1913年には、「もう一人の男」(1913)という作品も作られている。この作品は、落馬の影響で精神が分裂した弁護士が、眠ると別人になって悪党と一緒に自分のアパートに盗みに入るという物語で、1930年にロベルト・ヴィーネ監督がリメイクしている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。