キーストン時代のチャップリン

 他のどんな映画人よりも映画史に深く名前を刻み込むことになるチャップリンも、当然のことながら映画界入りした当初は新人だった。キーストン時代のチャップリンを語るとき、そのことを忘れて語ることは、意味のないことだろう。

 ヴォードヴィル芸人を両親に持つチャップリンは、飲んだくれだった父親が早くに死去し、母親が精神病院に収容されるという、悲劇を絵に描いたような貧しい子供生活を送った。そんなチャップリンは幼い頃から舞台に立ち、根っからの芸人として育っていくことになる。

 成長したチャップリンは、18歳のときからイギリスの劇団(カルノー一座)に所属していた。ここで、チャップリンは花形コメディアンとして活躍する。この一座には1913年にキーストン社と契約するまで6年にわたり所属している。チャップリンの芸の基礎がこの一座で育まれ、また後にチャップリンが製作する短編映画に影響を与えているといわれている。

 カルノー一座は1913年にアメリカ公演を行っている。このアメリカ公演の際にチャップリンは、マック・セネットによって目をつけられ、映画界に誘われることになる。チャップリンに提示された金額は週給150ドル。チャップリンに限らず、当時大衆の人気を得ていた映画に出演する役者たちは、舞台で演じるよりも高いギャラを提示されたのだった。当時は、舞台よりも映画は低級と見られていた。その状況でよい人材を確保するためには、一にも二にも金だったというわけだ。D・W・グリフィスも、リリアン・ギッシュも、映画界入りするときは、「低級な仕事だが、致し方なし」との気持ちだったという。

 チャップリンはキーストン社から提示された条件を受け入れ、キーストン社に入社する。ここで、勘違いをしてはいけない点が1つある。それは、チャップリンは決して次世代を担うエースとして入社したわけではないという点だ。その証拠に、チャップリンが初めてキーストン社の撮影所に足を踏み入れたとき、誰も迎えに来る人もおらず、撮影所長のマック・セネットに会うこともできなかったという。

 チャップリンが入社したキーストン社とは、コメディを専門にした映画製作会社で、マック・セネットという人物が主宰していた。セネットは、元々はグリフィスの元で働いていた人物で、グリフィスが不得意としていたコメディの分野を任されていた人物だった。コメディ専門のキーストン社が設立されたときに、その責任者として招かれたのだった。

 チャップリンが入社する前から、キーストン社の映画は大衆の人気を得ていた。日本ではデブ君と言われたロスコー・”ファッティ”・アーバックルや、キーストン時代のチャップリンの相手役として多数の作品に出演しているメイベル・ノーマンド、日本では馴染みが薄いが山羊髭を生やしたフォード・スターリングという役者たちが人気を集めていた。彼らは毎回同じような格好で、同じようなキャラクターを演じていた。彼らをうまく使って、コメディを製作したのがマック・セネットだった。といっても、すべての作品を監督したわけではなく、別の人物に監督させ、セネットは企画や編集などを行っていたといわれている。ただ、グリフィスの元で学んだセネットは、師匠ゆずりの編集テクニックで映画にテンポを与え、キーストン映画をキーストン映画たらしめていたと言われ、その意味でもキーストン社の映画はマック・セネットの映画だったといえる。

 そんなキーストン社にチャップリンは入社した。チャップリンは1914年の1年間キーストン社に所属し、35本の映画に出演する。ほぼ10日に1本のペースである。驚異的なペースのように思われるが、これは当時の基準から考えると、決して多すぎるわけではない。1本が10分程度と短かったことや、映画製作が即興であったこと(そのためにも、登場人物のキャラクターは固定されている必要があった)などから、これくらいのペースで製作することができたのだ。
 

 チャップリンといえば、山高帽にチョビ髭、きつきつの上着にダブダブのズボン、これにステッキを組み合わせたスタイルが有名だ。だが、デビュー作の「成功争ひ」(1914)は、この御馴染みのスタイルではない。フロックコートに片眼鏡というそれなりに威厳を持った紳士を演じている。しかも、悪い奴である。詐欺を行い、他人の特ダネを盗む。後のチャーリーにつながる面はどこにも感じられないといってもいい。

 特に期待されて入社したわけでもなく、どのようなキャラクターを演じるかの相談が事前にあったわけでもなく、映画撮影というものがどのようなものかもよくわからないチャップリンが、とりあえず演じてみたということだろうか。

 2作目「ヴェニスにおける子供自動車競走」で、チャップリンはお馴染みの格好を初披露している。しかし、臆病で、心優しく、貧乏なといったキャラクターは生まれていない。大衆に覚えてもらえる見た目を作り上げることには成功したが、決して内面のキャラクターまでは作り上げていない。

 キーストン社時代のチャップリンは、その特長的な見た目を生かしてマック・セネットが製作する映画の1つのコマとしての活躍を見せる。すでに、キーストン社でスターとなっていた人々と比べて、身体性の高さや、パントマイム芸の妙を時折見せてはくれるものの、即興で撮影されているということもあってか、決してそれらは「至芸」と呼べるほどのものとはなっておらず、その片鱗を垣間見せてくれるだけだ。

 ストーリーの面でも、後のチャップリン映画は短編でもドラマを感じさせる作品を製作するが、キーストン時代の作品では、そのような作品はない。ほとんどが即興で撮影された現場では、ストーリーを練ることよりも、そこにある状況でどのように面白いドタバタを見せるかの方に力点が置かれたのだろうと思われる。

 内面のキャラクターも、キーストン時代では確立されずに終わる。基本的に怠けもので、女性好きで、不器用であるという共通点を挙げることは出来るが、それはドタバタ喜劇を成立させるための記号のようなものである。元々、製作される映画の目的がドラマを見せるのではなく、ドタバタを見せるためなのだから、記号である方がむしろ都合がよかったのだろう。

 キーストン時代のチャップリン映画を見たときに感じられる違和感は、このあたりに理由がある。後年の作品と同じ格好をしたチャップリンだが、その中身は別物なのだ。あくまでもドタバタを動かすための記号であるチャップリンを、後年の活躍を知っている私たちは愛すべきチャーリーを見つめる視線で見てしまう。すると結果は、得られると思っていたものが得られなかった失望となる。

 数本の作品を除いて、この頃のチャップリン映画には後年のチャップリン映画に見られるような至芸も、安心感もない。だが、ところどころにその片鱗は見受けられる。それを発見するのは大いなる喜びだ。

 とはいえ、映画全体が私たちに与えてくれるものといえば、後にミューチュアル社とチャップリンが結ぶときの週給が1万ドルであることを考えると、確かにキーストン時代の作品は150ドルくらいの価値といえるかもしれない。完全に映画全体をコントロールするようになったミューチュアル時代のチャップリンの作品は、マック・セネットが監修するキーストン時代の作品と比べてそれくらいの差があるといえるかもしれない。

 キーストン社でチャップリンは映画人としての修行を積み(監督も行った)、次へのステップを固めていく。1ついえるのは、キーストン時代がなければ、チャップリンの次の一歩はなかっただろうし、長篇時代もなかったのだろうということだ。



(映画本紹介)

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