イタリア映画 「未来派映画宣言」

 当時のイタリアでは、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが提唱した未来派と呼ばれた芸術運動が起こっていた。そのマリネッティが9月に「未来派映画宣言」を出している。異なる時空の同時性と浸透性、音楽的探求、対象のドラマなどで映画を解放すべきと主張した。これに呼応して、アルノルド・ジンアが「未来派の映画」(1916)を発表。マリネッティも出演している。

 イタリアの未来主義映画運動は、ルチオ・ダンブラによる「王・塔・旗手」(1916)といった粋な風刺映画を生み出したと言われている。

 「王・塔・旗手」(1916)は、舞台装置・衣装・人物の様式化においてアヴァンギャルドな作品。幾つかの場面は、巧みな照明を用いて、バレエのように秩序付けられており、最初のシネ・オペレッタとも言われる。

 ダンブラはディーヴァの御用監督でもあった。演出も行ったが、脚本の仕事がメインで、カルミーネ・ガッローネがダンブラの作品のいくつかを監督した。

 ダンブラは製作会社を設立し、第一次大戦の終わりにはイタリア映画界で高い地位を得ていた。イタリアのコンメディア・ブリランテ(ライト・コメディ)はルチオ・ダンブラによって始まったと言われ、ピーナ・メニケッリらのスターも出演した。

 だが、ジョルジュ・サドゥールは、ダンブラに対しては次のように手厳しく評している。

「退廃したローマの監督たちによってと同じくルチオ・ダンブラによって、国籍喪失の過程が成し遂げられた。これによって、もはや国家的ではなく、戯画的であることが強調された。ディーヴァの身振りはもちろんイタリア的であるが、彼女たちの身振りの元は人工的であり、本当の世界の外にあり、無国籍的であった」