映画評「眠るパリ」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]フランス  [原題]PARIS QUI DORT  [英語題]THE CRAZY RAY

[監督・脚本・編集]ルネ・クレール  [製作]アンリ・ディアマン=ベルジェ   [撮影]モーリス・デファシオ、ポール・ギシャール

[出演]アンリ・ロラン、アルベール・プレジャン、マドレーヌ・ロドリグ、マイラ・セラー、マルセル・ヴァレ

 ルネ・クレールの処女監督作品。

 エッフェル塔の上に住み込みで仕事をしているアルバートは、朝起きてパリの街に出てみると、あらゆるものが動きを止めていることに気づく。飛行機でパリへやってきたためにアルバートと同じように動きを止められずに済んだ人々たちと、町を歩いて回るアルバートたちは、ある科学者が特殊な光線で街の動きを止めていたことを知る。

 1920年代のフランスでは、アヴァンギャルド映画が盛んに作られた。クレール自身もアヴァンギャルド映画運動の一翼を担い、日本でもソフト化されているため比較的有名な「幕間」(1924)といった作品を監督している。

 アヴァンギャルド映画と一口に言っても内容は様々である。既成の映画の概念から離れた作品を生み出していこうというのが主たる目的であるため、「幕間」や「アンダルシアの犬」(1928)のように、ストーリーを追うのではなく様々な映像を組み合わせて詩のように表現するという手法や、シュールなストーリーを展開するという手法など、手法は多岐に渡る。

 「眠るパリ」はストーリーがはっきりと語られている。だが、「パリの街が動きを止める」というシュールな設定がアヴァン=ギャルド映画的であると言われるゆえんである。サイエンス・フィクションでもあるが、パリの街の動きを止める光線には何の根拠もない。SF的な側面は、動きを止めたパリを描き出すための手段に過ぎない。

 時間を止める。これまでにも似たような発想の作品はあったことだろう。しかし、ここまで大規模なスケールを感じさせる作品はなかったことだろう。現代都市の代表の1つでもあるパリが動きを止める。それは、慌しい「現代」という時代を止めてみせることで、当時の人びとが生きる「時代」を浮かび上がらせるということにもつながっている。

 クレールは1928年にエッフェル塔を優雅に描いた「塔」という短編を製作している。クレールがこだわったエッフェル塔は、現代の象徴でもありながら、過ぎ去った時代のような優雅な側面も持っている。時間を止めたパリの人びとの中には、慌しい現代の時間の流れについて行けずに自殺を試みようとする男もいる。クレールは、時間を止めて見せることと、エッフェル塔を映画の中心に据えることで、慌しい現代を描き出してみせる。

 一方で、人びとはそれぞれが生きている時代からは、決して離れて生きていけないことも描き出す。時間を止められたパリは魅力的だが、一方ですぐに退屈になってしまう。最終的に時間は元に戻り、主人公のアルバートたちも元の時間の流れに沿った生活へと戻っていくことになる。ラスト、時間が止まっていたことを夢のように思い返し、そして夢ではなかったことを思い出すアルバートの姿は、どこか寂しげでもあり、それでも現在を生きていくしかないということを悟っているかのようでもある。

 クレールは、時にコミカルに、時に優雅に、このシュールな物語をつむいでいく。象徴的に物語の中心に据えられるエッフェル塔は、時代の中心でもありながら、時代から逃れる避難所のように描かれる。そんなエッフェル塔の鉄柱を使って縦横に移動するアルバートの姿は、時代をスイスイと生き抜いていくような力強さと、少し間違えば奈落に転落してしまいそうな危うさを感じさせる。時間を止められた人々の演技も見事だし、映像を止めることで時間が止まっていることを示すという表現も巧みに使われている。

 「眠るパリ」は当時としてはアヴァンギャルドな映画であった。そのシュールなストーリーにクレールに見事な語り口が加わり、それまでの映画にはない新鮮な映画だったといえるだろう。しかし、今見るとそれほどアヴァンギャルドには感じられない。その理由は簡単だ。「眠るパリ」のようにシュールなストーリーを語るということ、そしてそのシュールなストーリーから時代を浮き上がらせるということは、この先にも数々の映画に引き継がれていくことになるからだ。「眠るパリ」で使われた手法は、映画のスタンダードとなり、主にSF映画がその役割を担っていくことになる。

 「眠るパリ」は、シュールなストーリー映画の元祖といった存在であり、しかもただ元祖というだけでつまらない作品ではなく、非常におもしろい作品である。ストーリー、テーマ、映像表現・・・様々な要素が絶妙に絡み合った好篇と言えるだろう。