フランス 「純粋映画」 シュールレアリスムの流れ

 当時、美術や文学の世界では現状の形式から離れたシュールレアリスムアヴァンギャルドを目指す動きがあった。こうした動きについて出口丈人は「映画映像史」の中で次のように書いている。

 「工業化にもとづく大衆化社会、新しいメディア体験という、かつてない現実や戦争による新旧世代の交代によって、新しい価値観への期待と必要性が高まった。芸術では、そのような新しい価値観の探求が先鋭の形であふれ出てアヴァンギャルド芸術の花が咲き乱れた。しかもそれらの芸術家は映画に影響を受けたり、直接かかわったりと、映画との関係が深かった」

 こうした流れを受け、画家として活躍していたフェルナン・レジェがアメリカ人のダドリー・マーフィーと共同で機械装置、ショーウィンドウ、縁日の遊戯施設をモチーフにしたキュビズム映画「バレエ・メカニック」(1924)を、ルネ・クレールがバレエの幕間のための作品である「幕間」(1924)を監督している。実景のショットを素材としながら、映像や編集のリズムだけで成立させ、映画独自の要素を重視して映画の自律性を目指した作品で、こうした作品は純粋映画とも言われた。

 のちにフランスを代表する監督の1人となるクレールは、1920年に友人にゴーモンの撮影所に連れて行かれ、俳優として活動するようになっていた。ルイ・フイヤード映画の常連となり、7本の作品に出演したという。さらに、兄の勧めで監督ジャック・ド・バロンセリの仕事を手伝うようになっており、それが「幕間」の監督へとつながったのだった。

映画映像史―ムーヴィング・イメージの軌跡

映画映像史―ムーヴィング・イメージの軌跡