映画評「国民の創生(國民の創生)」 THE BIRTH OF A NATION

 デイヴィッド・W・グリフィス社、エポック・プロデューシング社製作 エポック・プロデューシング社配給
 製作・監督・脚本・編集D・W・グリフィス 原作トマス・ディクソン 撮影D・W・ビッツァー
 出演リリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ヘンリー・B・ウォーソール、

 D・W・グリフィス監督による「国民の創生」は、あらゆる意味で映画史に名を残すに足る作品である。その理由はあまりにありすぎて、ここにすべてを書くことがためらわれるくらいだ。

 まず、「国民の創生」が超大作であるという点だ。当時、映画のほとんどはまだ短編が中心だった。イタリアでは1914年に「カビリア」(この作品はビデオで見ることができる)といった作品がすでに長篇として世に出ていた。しかし、ことハリウッドにおいては、まだまだ短編が中心だった。1915年といえば、私たちが簡単に見ることができる数少ない1910年代のアメリカ映画であるセシル・B・デミルの「チート」や「カルメン」が公開されているが、これらのフィルムすら1時間程度のものである。また、チャップリンの短編もDVDで見ることができる。チャップリンは1915年にはエッサネイ社で映画を製作しているが、「珍カルメン」を除いてそのほとんどが短編である。「珍カルメン」も、1時間未満の作品だ。

 そんな中、現在私たちが見ることができる「国民の創生」は2時間35分の超大作だ。これは、今の映画と比べても長い。長いということは大したことではないように思えるが、当時の興行においてはこれがかなり賭けであったことは想像できる。当時の他の作品と比べて莫大な製作費をかけたこの作品は、映画館での収益が収入のすべてであった当時において、観客が入らなければ出資者たちを破綻へと導くことになる(後にグリフィスは「イントレランス」(19196)でその憂き目に会う)。

 興行的には「国民の創生」は大ヒットを飛ばした。通常の入場料よりも高い2ドルに設定したという入場料もものともしなかった。「国民の創生」は、アメリカ映画において国民的な大ヒットを初めて飛ばしたという意味でも映画史に名を残すに足る作品といえるだろう。

 この作品は、D・W・グリフィスの監督による作品である。同時期にすでに活躍していたセシル・B・デミルの作品が、デミルの作品というよりは当時の「アメリカ映画」という方がしっくりくるのとは対照的に、「国民の創生」はグリフィスの作品としての刻印が強く感じられる。それは、字幕に「DG(デビッド・グリフィス)」という自らのイニシャルが刻印されているという部分だけではない。内容については後述するが、「国民の創生」はグリフィスの作品といえる。

 これ以降、肥大化していくハリウッドにおいて、これほど監督の名が強く刻印される作品が製作され、そして大成功を収める例は少ない。「国民の創生」にグリフィスは出資もしており、映画はグリフィス一色といってもいいくらいなのだ。唯一の例外は同時代においてはチャップリンくらいだろう。

 映画誕生当初、映画はこじんまりと職人的に製作されていた。その代表例は、トリック映画でおなじみのジョルジュ・メリエスである。そんな状況は変化し、映画は産業として、製品として製作されていくことになる。大会社によって、工場に近い形で映画は製作されていく。グリフィスも(チャップリンも)、当初はひたすら生産される映画作品の部品の1つに過ぎなかったが、徐々に製作者の立場となり、自らの作りたい作品を撮るようになる。そのグリフィスの夢の結実が「国民の創生」であり、続いて製作される「イントレランス」である。両者の間に横たわる最大の違いの1つは、「国民の創生」は興行的に成功したということだ。

 映画が産業へと移行していく過渡期において、1人の人物が映画を製作し、そして大成功を収めたという記念碑的な作品として、「国民の創生」はやはり映画史に名を残すに足る作品といえる。


 映画本編そのものについて話そう。

 「国民の創生」は、南北戦争前後の南部を背景として、2部に分かれている。1部は、南北戦争の勃発からリンカーン大統領の暗殺までが描かれる。2部では、実権を握った黒人と、それに反発する白人たちとの間の争いが描かれる。

 1部は戦争の悲惨さがひたすら描かれる。親交の深かった2つの家族は、南北戦争によって敵同士となってしまう。敵となっても、戦場で顔を合わせれば、それはかつての友人に違いはない。2つの家族の兄弟たちは、それぞれ戦死者を出して、ついには1人ずつとなる。帰りを待つ家族の悲しみ。敗色濃い南部側の家では着るものを売り払わなければ生活していけなくなる。何とか生き延びた南部の家の兵士が帰り着くとき、そのボロボロになった心と身体が、荒れ果てた家が、ボロの服を精一杯着飾って迎える妹が、悲しさを助長させる。出征のときの街をあげてのどんちゃん騒ぎの影はどこにも見られない。あるのは、戦争が産んだ悲劇だけである。

 この戦争の悲惨さに加えて、メロドラマも語られる。やがて敵同士となる南北の2人の友人。北の男には妹がいた。南の男は、その妹の写真を見ただけで一目ぼれしてしまい、写真をもらって戦場でも大事にする。やがて、戦場で負傷した南の男が、北軍の医療所に収容されると、そこには夢にまで見た(演出もまさに夢を見ているようにされている)写真の女性がいた。メロドラマは、2部への伏線ともなっている。

 2部では、リンカーン暗殺後に、黒人が権力を握った南部が描かれる。北側の意向により、南部では黒人が議会では多数派を占めるようになり、白人は隅へと追いやられる。黒人はそれを利用して、傍若無人に振舞うようになる。

 戦争によって敵同士となった親交の深かった南北の2つの家は、再び親交を取り戻している。北部の家族は、家長の療養も兼ねて南部の家へと居候することになる。この家長こそ、黒人に実権を持たせるように決定した人物であった。病院で運命の出会いを果たした男女も、ここで再会する。2人の再会によって愛が燃え上がるわけではない。それよりも、描かれるのは、白人と黒人の対立だ。黒人の横暴に耐え切れなくなった南部の家の男は、自警団を結成することを決める。悪名高きKKKだが、この作品では、KKKは白人の命を守る正義の士として描かれている。黒人によって、妹を殺され、家族や愛する女性が黒人に命を狙われたことを知った南部の家の男は、KKKを率いて仲間である白人を救出するのだった。

 「国民の創生」の内容もまた、映画史に名を残すに足るものとなっている。その理由は2部にある。2部の内容は、白人を持ち上げ、黒人をさげすんでいる。そのことは明らかだ。「国民の創生」が公開されたとき、有色人種の団体から猛烈な反対が起こったというし、映画監督への賞であるデビッド・W・グリフィス賞は「国民の創生」における思想の問題において近年別の名称へと変更されている。

 確かに、「国民の創生」における黒人の描かれ方はひどい。ひどすぎるといってもいい。例えば、議会で靴を脱いで机に足を乗せる人物がいたり、密かに酒を飲む人物がいたり、あからさまに好色な人物がいたりという描写は、一方で白人の議員が礼儀正しく座っていることもあり、黒人を人として描いていないとまで言えるだろう。

 この黒人観は、まさにグリフィスによるものだ。グリフィスも、この作品にKKKに参加している人たちと同じように、南部の出身である。しかも、父親は軍人であった。そんな、グリフィスにとって、「国民の創生」における黒人観は当然のものであった。グリフィスはグリフィスの正義を「国民の創生」に注ぎ込んでいる。その意味でも、「国民の創生」はまさしくグリフィスの映画なのだ。

 私は決してグリフィスの思想を正しいとは思っているわけではない。黒人を人として描いていないからといって、この映画の価値が減じるわけではないことを言いたいのだ。

 その理由は、よく言われるように、この作品が「芸術的に」優れているからというものではない(それについては後述する)。それよりも、グリフィスのような考え方が、当時のアメリカにあったということをこの作品が証明していてくれているからだ。

 南北戦争後のアメリカにおいて、分裂した国家を1つにするために、黒人を攻撃することで白人同士の連帯を強めたという説がある。特に、WASPではない東欧系などの白人たちが、「アメリカ白人」の仲間入りするために、黒人差別を強めたという説もある。こういったアメリカ史を「国民の創生」は雄弁に語ってくれている。しかも、グリフィスのような考え方の人たちがごく少数派というわけではないことは、「国民の創生」に訪れた観客の数が物語っている。

 「KKK=悪」という図式は、確かにその面は強いと思われるし、わかりやすいが、その背景を「映画」で理解するための一助として、「国民の創生」は映画史に名を残すに足る作品といえると思う。

 アメリカ映画は、この作品の後、黒人の問題をほとんど表に出さなくなる。まるで、アメリカには白人同士しかいないような作品を多々製作していく。黒人たちは黒人同士で、黒人のための映画を製作していく。その断絶と、この作品のような思想的に問題があると思われるが、議論を呼ぶ作品が製作されることのどちらが正しいのかは私にはわからない。ただ、グリフィスは自らの主張のために、あらゆる配慮をせずにこの作品を作っていることだけは確かだ。


 D・W・グリフィスによる「国民の創生」は、演出ももちろんグリフィスによって行われている。グリフィスといえば、クロース・アップやカット・バックといった技法を完成させた人物(発見した人物ではない)として名高い。そして、「国民の創生」はその完成形としても高く評価されている。

 「国民の創生」においては、その群集処理が高く評価されている。確かに、その長い長い兵士の行列シーンなど、当時評価されていたことはわかる。だが、他にもたくさんの似たようなシーンをみてきた私にとっては、それはさほど心を打つものではなかったというのが正直なところだ。

 また、黒人の襲われる白人たちと、白人たちを救うために馬に乗ってかけつけるKKKの一団のカットバックも、「国民の創生」を語る上で欠かすことのできないものだろう。しかし、このカットバックは見ていてドキドキするほどのものではない。これは、最後には間に合うことを知っているとういことと、KKKをどうしても正しいものとして見ることができないということからくるものだろう。

 だからといって、この作品は今見るとまったく楽しめない作品ということではない。時間を割かれて描かれるリンカーンの暗殺シーンや、黒人に追われて崖へと追い詰められる白人女性のシーンの緊張感はなかなかのもので、グリフィスの演出や編集の確かさを知ることができるだろう。

 また、わざわざ字幕で「本を参考に忠実に再現した」と断るだけあって、リンカーン暗殺の場となる劇場や黒人の議員に選挙された議場などのセットは見事だ。

 役者たちについても触れなければならないだろう。最も印象深いのリリアン・ギッシュだ。グリフィス一門の中でもすでに古参の1人となっていたギッシュは、少しの表情の変化で感情を見事に表現している。病院のシーンで登場する、ギッシュ演じる看護婦に見とれる兵士は、実際にもギッシュに見とれていた男を起用して急遽挿入した人物なのだという。本筋の展開以外に遊びの部分がほとんどない「国民の創生」において、異色なシーンにはこんな理由があるのだ。


 ちなみに、私はこの作品を見て、「おや?」と思った点が2点あった。

 1つは、襲われると思って逃げ出す白人女性に向かって、黒人男性が言う言葉の字幕が「何もしないから」という内容だったという点だ。この白人女性は、自ら崖から落ちて自殺し、女性の兄が黒人への憎悪を高めるという展開になる。この「何もしないから」という言葉は、言葉だけであって実際には白人女性を襲おうとしているとしてグリフィスは挿入したのかもしれない。しかし、私には白人の黒人に対する過度の恐怖が過度の反応を惹き起こし悲劇を助長したかのように感じられたのだ。恐怖は人の理性のコントロールを失わせる。そして、そのことが悲劇を惹き起こすということを私は感じられた。

 2点目は、黒人に南部を支配させようとした北部の白人の政治家が、黒人の男性が政治家の娘を妻にしたいと言うシーンだ。政治家はそれに拒否をするのだ。このシーンは、映画終盤の混沌の中のワンシーンなどでさらっと描かれるに過ぎないのだが、白人同士の連帯の強さを強調するシーンとして非常に印象深かった。たとえ、政治的に黒人を利用しようとも、結婚や種の保存という意味ではどんなに黒人寄りの人物であっても、白人同士の結びつきの方を重視するであろうというグリフィスの考え方が如実に現れているシーンだった。


 「国民の創生」は、映画史に残る作品である。もしかしたら、この作品がなかったら、映画に大金をかけることも、2時間かけた作品が定着することも、映画が世の中に議論を巻き起こすこともなかったかもしれない。しかも、そんな「国民の創生」は、D・W・グリフィスという1人の人物によって作られている。グリフィスの思想を否定しようとも、今見てそれほど面白くないと言おうとも、「国民の創生」の映画史における地位は否定することはできない。



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