映画評「キッド」

 原題「THE KID」 製作国アメリ
 チャールズ・チャップリン・プロダクションズ製作 ファースト・ナショナル・ピクチャーズ配給
 監督・製作・脚本・編集・出演チャールズ・チャップリン 出演ジャッキー・クーガン、エドナ・パーヴィアンス

 1918年にチャップリンは、ミューチュアル社からファースト・ナショナル社に移籍している。ファースト・ナショナル社とは1年で8本の映画を製作する契約となっていた。だが、チャップリンは8本の製作に5年をかけることになる。

 その理由はいくつかあるだろう。チャップリンの人気が大きくなり、会社側も製作が遅々として進まないチャップリンに対して強くは言えなかったこと。金銭的な成功を収め、世界的な名声も得たチャップリンは、すでにあくせくと映画製作をする必要がなくなっていたことなどがある。だが、最大の要因はプライベートにあったのではないかと思われる。

 当時のチャップリンは、1918年に結婚したミルドレッド・ハリスとの結婚がうまくいっていなかった上に、ハリスとの間に生まれた子供が生後3日で死亡するというどん底のプライベートを送っていた。「犬の生活」「担え銃」(1918)という、チャップリンの代表作の1つとも言える作品を製作したチャップリンが失速したのは、プライベートがうまくいかなくなった時期と一致している。


 ファースト・ナショナル時代のチャップリンの映画を見ると、チャップリンが契約をこなすためにお茶を濁したような作品と、気合を入れて撮影された作品の2種類が浮かび上がる。前者の例は「一日の行楽」(1919)や「給料日」(1922)で、後者の代表例が「キッド」といえるだろう。

 「キッド」の子役のオーディションは、ハリスとの間に生まれた子供が死亡した10日後から行われたという。ここに、チャップリンの父親としての心理を読み取ることもできるが、それよりも重要だと思われるのは「キッド」を長編作品として製作しようとしたということだと私は思う。

 「キッド」はチャップリンにとって、初の長編作品である。と同時に、これまでのチャップリン映画とは大きく異なった趣を持った作品となっている。冒頭、赤ん坊を抱えながらフラフラと歩くエドナ・パーヴィアンス演じる母親の姿に、十字架を背負ったキリストの映像が挿入される。そして、「女-彼女の罪は母親たることであった」という重々しい字幕が登場する。それまでのチャップリン映画にはない重々しさがここにはある。それは、まるでD・W・グリフィスの映画を見るかのようだ。チャップリンの至芸であるパントマイムは抑えられ、代わりにあるのはチャップリン演じるチャーリーと、ジャッキー・クーガン演じる少年との間の愛情だ。

 これまでのチャップリン映画に、こういった要素がまったくなかったわけではない。だが、これほどまでに強調された作品はなかった。チャップリンは「キッド」で、新境地に挑戦している。


 「キッド」は、甘いメロドラマでもあるし、それまでのチャップリン映画を踏襲したチャーリーのキャラクターに加えて、ドタバタもある。これらは、チャップリン映画にこれまでも登場してきた。

 メロドラマ的な要素は、これまでのチャップリン映画のいくつかに強く刻印されている。特に、「放浪者」(1915)はメロドラマ中のメロドラマで、エドナ・パーヴィアンス演じる娘が本当の母親と再会し、チャップリンが再会を祝するという展開となっている。「キッド」では、メロドラマ的な大枠に加えて、展開もまたメロドラマ的だ。そのもっとも典型的なものが、少年が病気になるというものだろう。少年は、少し前まで元気に殴り合いのケンカをしていたにも関わらず、そのわずか10分後くらいには病気になっている。このありえない展開(もし、ありえるとしたらチャーリーが保身のために、少年がケンカに負けたことにするために、足で踏みつけて10カウントを数えたためとしか考えられない)は、安っぽいメロドラマだと指摘されても仕方がない面を持っている。

 チャーリーのキャラクターもこれまでと同様に、愛情と共に臆病さや残酷さを持っている。チャーリーは、赤ん坊を見つけたときに排水溝に捨てようとまで考えるし、先にも挙げたが、少年がケンカに勝ちそうになると保身のために足で踏みつけてまで少年の負けを宣告する。また、少年に窓ガラスを割らせた後、ガラスの張り替えをすることで金を得る狡猾さを見せるし、その際に女性を口説くといったスケベさも兼ね備えている。これまでのチャップリン映画に登場したチャーリー像は健在だ。

 ドタバタもある。少年のケンカ相手の兄貴とのドタバタは、「チャップリンの冒険」(1917)を思わせる。圧倒的な腕力を持つ相手に対して、すばやさと機知と運で対抗するドタバタは、「キッド」でも見ることが出来る。また、少年を連れにやってきた民生委員や医者たちとの間でもドタバタは繰り広げられ、チャップリンは屋根を伝って追いかけるという身体能力の高さを見せてもくれる。


 このように、「キッド」はこれまでのチャップリン映画を踏襲した内容となっている。にも関わらず、「キッド」はそれまでのチャップリン映画とは比べ物にならないくらいの知名度と名声を得ている。それはなぜかというと、それは「キッド」が長編だからという理由や、チャップリンが新境地に挑戦しているという理由以上に、「キッド」がチャーリー演じる義父と、ジャッキー・クーガン演じる少年の関係に絞って深く掘り下げた作品だからだと私は思う。言い換えると、チャップリンは「キッド」でこれまでにも使用した内容、使用した手法、使用したキャラクターを深く深く掘り下げることで「キッド」を成功作に導いたのだ。

 冒頭、赤ん坊の扱いに困ったチャーリーは、赤ん坊を排水溝に捨てようとまで考える。しかし、赤ん坊と共にあった手紙を読んで、チャーリーは一気に赤ん坊に親近感を覚える。手紙には単純に「愛して、育ててあげてください」と書かれているだけなのだが、赤ん坊が捨てられた子供であるということが、社会のはぐれ者であるチャーリーにとっては一気に親近感を覚える理由なのだ。ここには、自分と同じ境遇のものに対する並々ならぬ同情と愛情が垣間見える。


 少年とチャーリーは、まるで1人の人物が2人に分かれているかのようだ。少年がガラスを割り、チャーリーがガラスを直す。チャーリーが食事を作る日があれば、少年が食事を作る日もある。少年がケンカをすれば、チャーリーは少年のケンカ相手の兄貴とケンカをする。木賃宿のベッドはもちろん2人で1つだ。チャップリンは、少年とチャーリーの関係を単なる似た者同士以上の存在へと昇華させる。義父と少年の愛情といったメロドラマ的な内容は、さらに上の内容へと昇華されている。

 それを補足するのは、ジャッキー・クーガンの演技だ。クーガンの「キッド」における最大の功績は、その可愛らしさだけにあるのではない。それ以上に、クーガンが小さなチャップリンとも言うべき動きを見せることに意味がある。クーガンはこれまでの映画でチャップリンが演じてきた演技とまったく同じ演技を私たちに見せてくれる。窓に石を投げるのを警官に見つかりそうになり、笑ってごまかす仕草。警官の気を一瞬逸らした隙に走って逃げ出す方法。演技の面でも、クーガンとチャップリンは一心同体となり「キッド」の中に生きている。「キッド」だけを見ると、クーガンがそれまでのチャップリンの映画のチャーリーと同じ演技をしていることはわからないかもしれない。その意味で、これまでに製作されたチャップリン映画を多く見ていれば見ているほど、クーガンの演技の意味が、理屈ではなくわかることだろう。

 そんなチャーリーと少年が引き離されるということは、1人の人間が2つに引き離されることを意味する。それは「離れていても心は一緒」ということにはならない。1人の人間であるチャーリーと少年は引き離されると死んでしまう。


 「キッド」でもっとも感動的なシーンは、チャーリーと少年が引き離されそうになるシーンだといわれる。このシーン、よく見てみると、これまでのチャップリン映画にも登場してきたようなドタバタで成り立っていることがわかる。民生委員と医者に対して、小麦粉のような粉の入った入れ物を投げつけ、医者は真っ白になってしまう。連れ去られた少年をチャーリーは屋根を伝って追いかける。途中、転びそうになったり、うまく屋根を上れなかったりしながら。1971年にチャップリン自身が編集しなおした最終版は、この一連のシーンに悲劇的な曲調のチャップリン自身作曲の音楽をつけていることもあり、感動的に仕上がっている。しかし、この感動的なシーンがこれまでのチャップリン映画にも登場したドタバタで構成されていることは見逃してはならない。

 改めて見ると、それまでの作品では笑いを引き起こすために使われた手法が、「キッド」では感動を呼び起こすために使われているという点に驚嘆した。さらに、少年を取り戻したチャーリーと民生委員がいつの間にか入れ替わっているのに気付いた運転手が、驚いて逃げ出すシーンに感動を覚えた。逃げ出す運転手は、振り返ってチャーリーを見つめる。チャーリーが追いかける仕草をすると、運転手は恐れをなして逃げていく。引き裂かれた2人の人間が、再び1つになることでチャーリーはこのとき、無敵になっている。無敵なチャーリーを前にして運転手は逃げることしかできない。チャーリーと少年の強い結びつきを表現する上で、これほど素晴らしい表現があろうか。


 「キッド」を語る上で、欠かすことができないのは、チャーリーが夢に見る天国のシーンだろう。ここでは、聖書の一挿話のような善と悪についての小話が展開される。それは、まるでD・W・グリフィスの映画を見ているかのようだ。空中を舞うチャーリーの動きはワイヤーアクション(!)を効果的に使っているといえるが、正直に言って私はそれほどの感慨をこのシーンには覚えない。

 冒頭のキリストの映像や重々しい字幕、天国のシーンなど、チャップリン映画作家として、これまでにない手法を用いている。そのD・W・グリフィス的な手法は、決してうまくいっているようには思えない。それよりも「キッド」が、これまでのチャップリン的な内容、チャップリン的なキャラクター、チャップリン的なドタバタを用いながら、より深化させている点が「キッド」のもっとも素晴らしい点だと私は思う(それは、チャップリン自身もそう思っていたのか、1971年の最終版の編集でエドナ・パーヴィアンス演じる少年の母親に関する部分がカットされ、よりこれまでのチャップリン的な部分が強調されるようになっている)。


 チャップリンは、プライベートのトラブルを乗り越え、「キッド」で新境地に挑戦している。長編化、グリフィス的な重々しさに挑戦している。しかし、最大の挑戦と成功は、これまでのチャップリン的なものの深化だろう。チャップリンはこれ以後も、チャップリンとしてチャップリン映画を作り続けていく。「キッド」はその最初の一歩である。

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