映画評「最後の人」

※ネタバレが含まれている場合があります

最後の人【淀川長治解説映像付き】 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

[製作国]ドイツ [原題]DER LETZTE MANN [英語題]THE LAST LAUGH [製作・配給]ウーファ

[監督]F・W・ムルナウ [製作]エーリッヒ・ポマー [脚本]カール・マイヤー [撮影]カール・フロイント

[出演]エミール・ヤニングス、マリー・デルシャフト、マックス・ヒラー、エミリー・クルツ、ハンス・ウンターキルヒェン

 ホテルの老ポーターは、金モールのついた立派な制服が自慢。近所に住む人々もそんな老ポーターに尊敬のまなざしを送る。だが、老ポーターは年齢を理由に、洗面所に配置換えとなり、制服も取り上げられてしまう。

 驚くべきは、字幕がほとんどないということだ。洗面所への配置換えの辞令が映し出されるシーンと、老ポーターに偶然の幸福が訪れる部分にのみ字幕が出る。だが、老ポーターに幸福が訪れるという最後の10分のシーンは、あまりにも暗すぎるラストにスタジオ側が強引に付け足させたものであることを考えると、本来の製作者たちが意図した部分では辞令のみと言えるだろう。

 字幕がなくとも、「最後の人」はわかりやすいほどよく分かる。ストーリーもよく分かるし、登場人物の気持ちもよく分かる。様々な映像手段を使い、字幕を使わなくても分かる演技を引き出している。

 「最後の人」は、ハンディ・カメラが使用された最初の映画とも言われている。その威力は十分に発揮されている。冒頭の降りてくるホテルのエレベーターから、回転ドアを抜けて、雨の降る道路で働く老ポーターの姿を追うショットの流麗さは、これまでの映画にはないものであるとともに、ワン・ショットで主人公である老ポーターがどのような境遇にあるか(どれくらい立派なホテルで、どのように働いているか)を見せてくれる。他のシーンでも、ハンディ・カメラは、急速に動いたり、ゆっくりと動いたりすることで、登場人物の心理を表現することに成功している。撮影のカール・フロイントの功績は大きい。

 表現主義的な手法も忘れてはならない。ポーターの職を奪われた老人には、それまで愛すべき存在だったホテルが、まるで自分にのしかかってくるかのように威圧的に見える。出勤する際には、隣人の女性が自分を見て狂ったように嘲笑しているように見える。こういった「〜のように見える」部分を、まさにそのままに表現して見せる手法は、映画から字幕を取り除く一助となっている。

 老ポーターが見るかつての堂々たる仕事ぶりの夢を、二重露出で描いてもいる。これみよがしに見せつける技術から離れて、「最後の人」ではトリックは話法の1つの存在として昇華されている。

 字幕を使って表現しないためか、1つ1つのシーンの印象が強い。特に、隣人の女性に老ポーターが洗面所で働いていることがバレてしまうシーンは、衝撃的ですらある。悪く言えば大げさなのだが、映像だけで語り、さらに印象的なシーンにするためには必要なことなのだと思う。

 エミール・ヤニングスの堂々たる演技も見逃せない。ポーターの仕事に誇りを持っているときの表情と態度(ヒゲがピンと張っているように、いつも気を使っている)から、ポーターの職を奪われた後の怯えた表情と態度への変遷。特に制服と共に誇りを奪われた眼は、卑屈ですらある。

 ストーリーに、権威主義への皮肉が込められている点も触れる必要があろう。「カリガリ博士」でも権威への批判を込めたカール・マイヤーによる脚本は、権威の象徴である制服という小道具を使って、本来ならば人間あっての制服であるはずが、制服あっての人間となってしまっている状況に対して皮肉を込めて描く。しかも、誰よりも制服を奪われた本人が、制服を奪われたことを知った周りの人びとよりも、絶望的になっている点が哀しい。本来終わるはずだったシーンでは、絶望から死へと至る(元)老ポーターに、警備員がそっと制服をかけてやるという、哀しさもひとしおのものだったらしい。

 老ポーターに思いがけず大金が入るというエピローグは、安易なハッピー・エンドへのアンチテーゼになっているとも取れるが、大方の意見がそうであるように、蛇足のように感じられる。せっかくの無字幕が、このエピローグのために打ち破られてしまっていることからも、そう感じられる。エピローグ自体は、巨大なケーキや大量のキャビアなどのグロテスクなまでの豪華な食事に皮肉が込められているとも言えるが、やはり全体のバランスは損なわれているように感じられる。ちなみに、アメリカ公開に際してはタイトルも「LAST LAUGH(最後の笑い)」に変更されている。

 「最後の人」は、ハンディ・カメラや映画的な映像表現(二重露出、クロース・アップなど)といった映画ならではのテクニックを駆使し、映画ならではの演技(特に眼)を得て、さらには表現主義的な手法といったこれまでの映画が獲得してきたあらゆるテクニックを駆使して可能になった、映像だけで物語を語る見事な映画だ。

 「最後の人」を理解するためには、観客のそれまでの映像体験が必要不可欠だったことだろう。カメラが移動できることや、カメラが人物の表情を大きく捉えることができることや、具体的な表現の中に抽象的な表現を織り交ぜることや、編集という機能によって様々なショットをつないで意味をなすことが可能であるということが理解されている必要があったことだろう。そう考えると、「最後の人」は当時のサイレント期の映画の、技術的な総決算的な意味合いを持つような気もする。サイレント映画が生み出した技術を結集すれば、字幕なしでも映画で深いストーリーを語ることができるのだということを、「最後の人」は教えてくれる。

 字幕なしでもサイレント映画が深いストーリーを語ることを可能にしたカギが、ハンディ・カメラであったことは興味深い。映画の観客は、登場人物でも単純な第三者でもない、「カメラの眼」という映画独自の存在によって、映画ならではの体験をしていくことになる。そして、ハンディ・カメラがその「カメラの眼」の役割を大きくさせたことは間違いない。わかりやすく言えば、映画の観客はハンディ・カメラを手に入れることで視力がよくなったのだ。

 「キャメラを持って語れ」が、この映画製作時の合言葉だったらしい。その試みは見事に成功している。しかも、その成功が商業映画の枠内で達成されたことも触れておく必要があるだろう。実験性と通俗性の両者が同居している例は、それほど多くはない。